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対話の世界

カーロリ大学日本学科の議論の授業用ブログ

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オタク

 私はオタクのことをよく知らないが、知っている限りでは、必ずしも日本の外にオタクが存在するわけはないような感じがする。インターネットでこの単語を調べると、「geek」、「nerd」、「enthusiast」、「otaku」という英語訳語が出てくる。最後の言葉以外は全部オタクに真に等しくなく、英語圏の文化でオタクに近いものである。私は若い頃アメリカで住んでいたから、「geek」と「nerd」の現象を良く知っている。この二つの言葉はアメリカの文化の特徴で、そんな人は本当にアメリカだけで存在する。最初に「nerd」を定義しよう。その人とは普通より知的能力が高いか、ある地域で優れた能力を持つが、社会技能や姿などで弱点を持つ人のことである。外見にも固定概念がある。胸のポケットにペンが幾つか付けられた白か格子のシャツを着ていて、真ん中で折れた厚い眼鏡がテープで修理されている痩せた男のイメージである。もちろん、このイメージに当たるものはアメリカでも珍しい。ハンガリーでは今までこのイメージに近い人さえ見たことがない。多くの人に不格好と思われている優れた人はどこにでもいるに違いないが、「nerd」の固定されたイメージに当たるものはそうではない。「geek」は「nerd」と少し違う。「geek」とは優れた能力があるわけではない。しかし、「nerd」と逆に、多数の人が彼に対しては親しみを感じる可能性がある。「geek」の特徴は、多くの人が変に思う趣味を一生懸命やる人のことである。この人もいじめられ、社会技能が下手なことが多いが、呼称は外見については表しておらず、以上に言ったとおりに親しみやすい人の可能性もある。こんな差の細い意味合いを例えばハンガリーで適用するのは無理であろう。この二つのカテゴリーはアメリカの文化の特殊のものだからである。オタクの現象も同じである。その単語が指すイメージに近いものは世界中で発見し得るが、ぴったり当てはまる人は日本にしかいないと思う。(ヤーノシュ)

最近日本のポップカルチャーは世界中で大人気がある。その中でも、アニメや漫画が一番有名だろう。日本では、アニメが好きな人はよく「おたく」を呼ばれているが、日本以外にもおたくがあるのだろうか。この質問に答えるのに、まずおたくの定義を探した方がいいだろう。ヴィキペディアは「おたくはサブカルチャーのファン集団の総称。独特の行動様式、文化を持つとされる」と述べ、「趣味に熱中している人物を指して、その趣味の分野に関わらずおたくと呼ぶこともある」とも指摘する。この定義に基づいて考えたら、ハンガリーでもおたくという人物があるには違いないが、アニメが好きだからと言っておたくと呼ぶのは間違いだろう。ハンガリーでも年二回アニメコンというイベントが行われている。それは、簡単に言うと、おたくのコンベンションだが、アニメコンは本当におたくのためのイベントだろうか。ハンガリーでは、日本とは違ってアニメコンでは日本文化に関するプログラムが幅広くて、それは現在の日本文化をハンガリー人に伝えたい意志が強いからだろう。アニメコンに参加する約6000人の中にはもちろんおたくも大勢いるが、ただ日本のアニメやポプカルチャーに興味がある人も多いだろう。そういう人たちは趣味に熱中しているわけではなく、年二回アニメコンに参加しているだけだろう。他の日々には学校に通ったり、仕事をしたり、家族を作ったりして、自分の生活があるかもしれないだろう。趣味に熱心すぎて、本当の世界と離れて、自分の世界に閉じこむのはやはり危険なことである。けれども、それはアニメのせい、それとも日本文化のせいということは間違っているではないだろうか。アニメが好きな人の中にも一般の生活をしている人が多いし、アニメを全然知らない人の中でも、自分の世界に閉じこむ人が多いだろう。(クリスティナ)

ハンガリーにオタクがいるかいないかと言えば、まずオタクという人種の定義が必要だと思います。日本のオタクと言えば、ただのアニメとか鉄道が普通より好きなファンではなくて、性格が曲がった積極的なマニアのことです。オタクは普通の世界は苦手で、アニメの世界とかに閉じ込められている言えばいいかもしれない。ヒキコモリにちょっと似ていると思います。先週は皆でハンガリーにも日本のようなオタクがいるかどうかということについて話をしたのですが、たぶんいないじゃないかという結論になりました。もしいても、ハンガリーのオタクは日本とは違う雰囲気があるはずです。なぜ違うかというと、その原因は社会の差異である。現代の日本の社会は、激しい資本主義と固い伝統的な日本の価値観が混ぜられて、ヨーロッパから見るとめちゃくちゃです。そういう究極的な社会で、(こちらの観点から見ると)究極的に生活が変な人種が産まれます。でも日本から見るとこれはたぶん普通です。オタクという存在は現代の日本の社会の、意外なことが多いという特質をよく反映してると思います。(ジュラ)

実は漫画とアニメの世界について私は全然詳しくないですから、オタクはどんな人かもよくわかりません。ですから、オタクの意味を辞書で調べてみたところ、英語の 「fanatic 」と「addict」という言葉が出て来ました。また、広辞苑には次の定義が見つかりました。「特定の分野・物事にしか関心がなく、その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人。仲間内で相手を「御宅」と呼ぶ傾向に着目しての称。」従って、もちろん人によることですが、オタクは良い所と悪い所もあるらしいです。英語の「fanatic」はいい意味もあると思いますし、広辞苑によるとの「異常なほどくわしい」のがいいところだと思います。しかし、「addict」と「社会的な常識には欠ける人」とはあまりいいことではないと思います。あるオタクはただのファンなのか、依存症なのか自分でコントロールできれば、そこまでは問題ないと思いますが、ただのファンでも周りに迷惑を掛ける可能性があります。例として一番根本的なことを言うと、家事の手伝いをしなかったり、お金を周りから見ると無駄なものに使ってしまったり、家族生活にあまり参加しなかったりすると、一緒に住んでいる人達にとって必ず迷惑になると思います。私の意見はとてもシンプルですが、常識があって社会人になれる人は趣味としてアニメと漫画などのファンでも全然問題ないと思います。しかし、最初はオタクで、結局ニートかひきこもりになってしまうと、家族にとっては大きな解決しないといけない問題になります。日本の社会レベルでも、こういう社会問題がもっとひどくなると、できるだけ早く対策について考えないといけなくなると思います。(シャーラ)

私はアニメやマンガの世界にあまり詳しくないが、日本とハンガリーのオタクはちょっと違うのではないかと思う。「オタク」この言葉はハンガリーでアニメやマンガの好きな人を指し、主に若者の間に流行っているようなので、私にとってむしろファッションの一種に見える。少年は音楽など好きなものによって自分のアイデンティティーを定めるし、それによってグループを作るから、様々なアイドルにほれたり、服装などによってこれを表したりするのは何も不思議なことではないと思う。そのため、ある人はアニメ・マンガを趣味として扱い、これによって幸せになったら、完全に大丈夫だと思う。一方、日本ではアニメのキャラクターと結婚し、本当の人間関係を作れなくなる人もいるそうであるが、このような現象はむしろ現実や人生に直面できない人の心理的な問題だといえるかもしれない。その上、アニメとマンガは暴力などが多いとよく批判されるから、あまりいい影響を与えないと考えられている。実はアニメやマンガの暴力は本当に日常的なものとして登場するので、どのような影響を及ぼすか私も少し心配している。(エリカ)


 エステルさんの卒業のテーマはオタクでした。とても面白いテーマだと思います。しかし、面白いけど、難しいです。どうやって誰がオタクかを決めるのでしょう?エステルさんはファッションについて話しました。でももちろんオタクのことはファッションよりもっと深いのことです。グループでコスプレについてはなしました。誰かがコスプレはやばいと言いました。それでどうして『やばい』かと聞くと、「自分がダメだと思うので、あるキャラクターに似せようと思う。」と言いました。そうかもしれません。でも、これはコスプレの問題ではないと思います。どんな人も、ちょっとは誰かににたいと思っていると思います。たとえば自分の母親に似たいという人もいるでしょうし、あるのアイドルに似たいという人もいるでしょう。
 私は日本のオタクと会ったことはないけど、たくさんのことを聴きました。エステルさんの論文も読みました。エステルさんの質問は日本でもちろんオタクと言う人がいるが、ほかの国でもオタクがいるのかということでした。エステルさんはこの質問に『はい、いる』とこたえました。エステルさんによると「アニメファンもオタク』とのことです。この意見はいいと思いますが、オタクは日本だけに生きていて、たとえばハンガリーではこのような人をファンというんじゃないかと思います。その上たぶん国と文化も違うからヨーロッパでそれともアメリカではオタクのような人は生きられないかもしれません。ということで日本のオタクとぴったり似合う人は日本にだけいるのではと思います。(ジュジャンナ)

オタクってどんな人ですかと聞かれたら、私たちは簡単に答えられないだろう。国によって違いそうな意味を持つ『オタク』の定義は色々あるが、何とまとめていけばよいか考えてみよう。広辞苑によれば『ある趣味・事物には深い関心をもつが、他分野の知識や社交性に欠けている人物として説明される。』と書かれている。インターネットで調べてみると『現在は、主に20代以降の、アニメ・漫画・ゲーム・アイドルなどを愛好する人(たち)のことを指す。ファッションに関心が無い、自室にこもりがちな暗い人物への蔑称として使用されることもあった。http://d.hatena.ne.jp/keyword』という定義が出てくるので、やはり元々は日本の、世界中に人気のあるポップカルチャー(ゲーム、アニメ、マンガ)の熱心なファンに対し、結構ネガティブなキーワードとして使われている場合が多い。しかし、日本でかなりネガティブな意味を持つからといって、世界中のどこでもそうであるという基本ルールはないだろう。例を挙げると、日本のオタクと比べて、ハンガリーにいるオタク系の人たちがそこまで熱心なアニメやマンガのファンではないと考える。自分の暗い部屋に一日中隠れている非社交的な人はいると思うけれど、そういう人たちははっきりいうと精神的に少し病気だろう。別にアニメやマンガがそこまで好きなわけではないが、自分の世界に生きたい人である。アニメやマンガの世界は事実と完全に違うので、引き込もりする若いひとはそういう世界にハマっているには違いない。普通の日常生活を送っているハンガリー人のアニメやマンガのファンがむしろ多いと思う。年に一回、二回ぐらいアニメコンに行ったり、同じ興味を持つ友達と会ったり、話たりするが、それ以外は普通にお仕事したりするのだろう。しかもハンガリーのアニメコンはアニメやマンガの熱心なオタクにいいイベントを作りたいだけではなく、日本文化もきちんと広げたいという目的があり、目的を貫くために音楽、書道、アート、オリガミ、カラオケ等、文化関係の発表なども頑張っている。以上をまとめると、ハンガリーでは、オタクの言葉をアニメやマンガのファンによく使われているが、その意味は日本のオタクの人と違うだろう。(マリアンナ)

また言葉の意味から始める必要があります。日本語のおたくのような言葉はハンガリー語に翻訳するのがあんまり簡単ではありません。生活あるいは趣味の観点でみれば、「抜本てきに好きなものを非常に大切にする、夢中になれるひと」の定義が正解かもしれません。この定義はおたくだけではなくて会社員、学校先生、研究者までの人達にも使われます。なぜなら天才の研究者も好きなものに夢中になれるし、ブローカーにも同じ気持ちが感じられます。違っているポイントはおたくはまったく有用な活動していない人と思われている点です。社会はいそうろうを排斥して、今も社会にとって役に立つ生活を優先します。だが、機械はなんでもできて、人の代わりも殆んどできるこの時代に、人は変わると思います。人生の意味を考えると、おたくは私たちよりずっと幸せな生き方をしているでしょうか?(ダーニエル)


「オタクって何ですか。」どんな人でしょうか。一般の人とどこか違うか。オタクの世界をまったく知らない私に、実に答えにくい質問です。オタクで有名な秋葉原に行った事がありますが、そこに行ったからと言ってオタクに詳しくなれるわけではないと思います。しかし、エステルさんが発表で見せてくれたハンガリーのブダペストで行われたアニメコンの写真を見たら、日本人のオタクとハンガリー人のファンははっきり見える相違点が結構多いと気付きました。私は意識的に日本人の場合は「オタク」、ハンガリー人、また外国人の場合は「ファン」という言葉を使っています。何故ならば、日本人のオタク独特の姿、行動や暮らし振りは外国人のファンにとって真似ることはできないみたいだからです。もちろん、私は大変間違っているかもしれませんが、例えば、エステルさんが述べたオタク風のショッピング、コスプレ、カラオケ等、オタク独特の行動という、その全ては外国人のファンなら何だか本物の日本人オタクとどこか違うような感じがします。文化的な背景のこととか、ファンは基本的に日本人の性格をしないこととか、また生活スタイルかファンは独自性を持っていないこととかと思っています。ですからちょっと考えてみれば、外国人のオタク、そういうのは存在しないのではないかと思うわけです。(ソフィー)

もともとハンガリーの場合はオタクの言葉をどの現象に対して使えるかははっきり出来ませんでした。日本のオタクは本来ファンですが、その程度が極端になって引きこもりのように閉鎖した生活をおくる人達だとマリアンさんが教えてくれました。けれどもエステルさんの発表によるとハンガリーのアニメコンに出席するファンに過ぎない参加者の全員がオタクだと提示しました。ならば日本のオタクとハンガリーのオタクは全く違う存在でしょう。この点は誤解している可能性もありますがだれかが教えてくれたら嬉しいです。対話に出たもう一つの考えはオタクは極端に閉鎖した生活を送る人なら、その人を助けることです。引きこもり近い生活の人はやはり治療法が要ると思いますからハンガリーにもこういう現象があるのならすぐ解決方法を考えればオタクの幸せにもなるでしょう。結論を出すのなら、エステルさんの研究が目指せる一つの新しい方向としてアニメのファンに行きすぎを避ける方法を教えるためにオタクの心理学的状態やその治療を調べることがあると思います。エステルさんの研究を成功するように応援しています。(レベンテ)

オタクというのはあるテーマに非常に興味を持っている人を指しています。最近ハンガリーにもアニメと漫画が人気になってきて、アニメオタクの数が増えている。けれどその人達を本当にオタクと呼んでいいのでしょうか。人の多くは「オタク」という言葉を聞くとネガティブなイメージがします。なぜならオタクのイメージは「汚い部屋に住んで、ひきこもりで、三次元に興味がなくて、部屋がグッズで一杯」ということだからです。つまり英語の「nerd」という言葉に近い意味です。これを知っているアニメ好きの人の大勢は「オタク」という呼び方が相当に嫌いです。それはその人達はただのアニメのファンだからです。趣味としてアニメを見ることや漫画を読むことが、マニアックではないです。ハンガリーでは最も大きいなアニメのイベントはアニメコン(アニメコンベンション)といいます。一年にいくつかのアニメコンがありますが、最も多いには何千人も参加します。プログラムも様々あるので、ひまになる可能性は低いです。アニメコンにはマイナスの影響もあるが、ポジティブの影響もいくつかあります。けれどその中でも一番大事なのは社交を深めることだと思います。(エメシェ)
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色、文様、衣服について

 確かに、色が力がある。感覚を通じて自然と人工の符号が人間に影響を及ぼすので、みな多かれ少なかれ力がある。体験するにつれて、現象の体系化された特色が固まって行き、現象に期待される特色が反応を定めるようになる。例えば、森で散歩したら葉が赤くなってきたことを発見する時、天気がどんどん寒くなってきているという判断が出て来て、感情的な反応、また体感までを含める反応が現れるかもしれない。一方、道路で散歩しているときに赤のサインと出会う時、注意が必要だという情報が期待され、よく気を付けてサインを読もうという反応が現れる傾向もあるであろう。最初の例の場合は、自然における因果関係の知識、二つ目の例の場合は「赤」の文化的な特色の知識が反応を起こさせた。
 色が人間の精神を安心させたり、不安にしたりできる心理的な力があるとは良く聞かれる。しかし、その心理的な力が色自体のことか、それとも色の文化に生じられた一種の機能だけなのであろうかが問題であると思う。医学では色の力が良く使うことが常識である。昔だとアーユルヴェーダというインドの医学では体の部分の中心となるいわゆるチャクラが七つあるが、みな自分の色も持つ。病気は体の中の色が不平等になることによるもので、患者が適当なる色の実用によって自然の安定を再建したら治療ができるという考えがあったそうである。理論が伝統になったら、その文化の人たちが伝統的な手法に信じる故に、治療が偽薬のように良く効く可能性がある。しかし、体の中の部分に色が付いてることは、自然のことではないであろう。それに、色に付いた文化的な内容は一つの文化の中でも多面的に現れる可能性もある。例えば、葉の赤は別として、西洋の伝統的な「赤」も多面の意味を持つ。「危険」とそれに基づいて「禁止」などという警戒色の機能の外に「あい」の象徴の色である。異なる文化の場合は、この差がもっと広くなるであろう。患者に与えられる色の影響が偽薬効果かどうか決断しにくい。ある検査では偽薬の薬の中で寒色より暖色の方が効くという結果が発見した。しかし、これも色自体の特色ではなく、色の文化的な内容のおかげかもしれない。薬が赤いので、もっと強い筈だという期待が出るからである。そのようの疑問のために、色が文化を外した人間にどんな影響を果たすかは不明で、調べようがないと思う。(ヤーノシュ)

ソフィーさんの着物の模様や彩りについての発表を深い興味をもって聞いた。どうしてかというと、この21世紀の中でイロや模様など、飾りそのものの意義が少し無視されているといつも感じているからである。黒い服を着たら細く見えるなどぐらいは女性なら皆詳しいようであるが、模様や色によって様々なことが表されるし、季節に合わせる必要があると思う人は少ないと思う。服といえば、どこでも同じ色ばかり見られるし、模様といっても、頭蓋骨みたいなものが流行っているようであるが、どのようなメッセジを伝えるか私にはすこしも理解できない。服だけではなく、どんなことでも便利さや安さだけが注視され、綺麗さや意味が徐々になくなっていく傾向があるのではないか。本当に残念に思う。とはいえ、無意識的に皆が色のメッセージを感じると思う。例えば、好きな色も嫌いな色も皆にあるであろう。はっきり分からなくても、そのようなこともある特別な意味を持っているのではないかと思う。(エリカ)

江戸時代の振袖は間違いなく和服の一種として工芸美術的な価値を持つ。しかし、振袖はただの衣装だけではなくて、女性の自己表現の方法と見なした方がいいと同級生が今回の授業で主張した。振袖の色や模様を通じて自分の社会的位地を始め、婚姻状態、年齢、季節感さえ表すことができた。最近グローバリゼーションの影響で世界中どこでも人々は同じ洋服を着ることになった。すると、自分の国籍、社会階級、婚姻状態などを表す伝統的な衣装はもう使われていない。しかし、この状態でも若者は自分が属するサブカルチャーの特別な服を着ることが多い。大人になって、就職したらその仕事に求められた服を着られなければならないが、若いうちに服をもって自己表現をする程度は強い。この点は、江戸時代の女性とは違わないと言えるだろう。この立場から考えてみると、「衣服を通じる自己表現」という歴史的な習慣は人々の意識で強く残っているのではないだろうか。(クリスティナ)


どんな服を着ても、それは何かのメッセージがあります。もし意識しなくても、服を皆自分で選択して着ています。人が服で伝えたいメッセージは色々あります:金がある、金がない、普通、特別、明るい、暗い、おもしろい、近づいてはだめ、社会人、社会外の人、高級など。どんな服がどんなメッセージを持つか、それは着ている時点と場所、あるいは着用するときの社会によって決められています。Zsofiaさんの発表によれば、江戸時代は紫色の服は「貴族」だという意味を持っていたようです。なぜなら、そのころは服を紫色に染めるのがずいぶん金がかかったからだそうです。それから昔の日本は茶色は貧乏の象徴だったという話もありました。しかし江戸時代の貧乏な人が「貧乏だから」といってわざと茶色の服を着ていたわけではないと思います。茶色の服は一番安かったではないかと。いま顧みると江戸時代の衣装の色の象徴ははっきりわかるかもしれませんが、当時は人々は自分の服の象徴などを意識していたのかなと疑問に思います。自分は街の中の人々を見て、その人たちを判断します。いい人かな、怪しい人かな、判断するとき最初はやっぱり服装を観察します。意識していない象徴がいっぱいあるとおもしろいです。(ジュラ)

ファッションの面だけではなくて、色は生活の様々な面で大切な役割を果たすと思います。それぞれの色は昔からずっと意味があって、それぞれの文化で色々なことの象徴になっています。例えば、喪の決まっている色はヨーロッパでは黒ですが、なぜかわからないけれども、洋服は全部真っ黒の若者の姿を見ると、ロック音楽のファンだと思ってしまってしようがありません。ラテン民族は情熱的なイメージとつながっていそうですが、派手な服もよく着ています。情熱のイメージには赤や他の派手な色が伴います。部屋の壁の色を決める時もよく考えないといけないと思います。部屋の色を間違って選ぶと、壁みたいな大きな表面をずっと見ることで色々な良くない影響を受ける可能性もありそうです。しかし、逆に壁の色でいい影響を受けることもあります。本当かどうか知りませんが、ブリトニ・スピアズが演奏の前に準備する部屋の色はピンクにしてくださいといつも命令していると聞きました。なぜかというと、ピンク色は声帯にはいいと言われているからです。他の例だと、緑色には落ち着かせる力があるという発見もあります。病院の壁も多分同じ理由で緑色のペンキが塗ってあります。(シャーラ)

ジョーフィさんは江戸時代における女性用衣服に秘めやられたメッセージについて話しました。私こんなことにぜんぜん気づいてこなかったのでとても面白い発表だったと思います。色と文様にそんな意味があったとは。すばらしいです。で、現代に文様と彩りはどんな意味はあるかということですが、このことは全部の文化で必要だと思います。たとえばハンガリーでは葬式で必ず黒色服をきていますが、ほかの国でたぶん白色服や赤色服が必要です。だからたぶんほかの国
へ行ったら習慣を勉強することが大切です。ジョーフィさんの発表の後、グループで現代社会で色の意味についても話しました。たとえばエモと言うひとは度々黒い服を着るし、ストライプもようの服を着ると思います。そしてロッカー(Rocker)は黒色服ばかり着ています。服の色は江戸時代のように人がどこに属することを決めていると思います。例えば高校でみんなは自分の道を探しているのでグループを見つけたときそのグループの『色』を着始めると思います。ある人は高校性になる前には桃色が好きだったけど、高校で自分の人物を見せるために多分、ほかの色、たとえば緑色や紫色が好きになると思います。でも高校を卒業した後少し大人になるためにまた自分の好きなものが変わる可能性があると思います。で、着る色もチェンジすると思います。でもそのときはグループのせいではないと思います。このように江戸時代の日本だけではなくて、ほかの国、ほかの時代にも。模様と色には意味があると思います。(ジュジャンナ)

江戸時代の振袖の色や模様の発表を興味深く聞きながら、色や模様の意識されている価値・メッセージなど、そういうことが現在にもあるのだろうかと考えた。遠いむかしは、男女は自分の服装にものすごく注意していたので、性別・身分意識・年齢・季節などによって服を着ていたそうである。現在の世界を見ると、人は自分の服装がどんなメッセージを表せているか全く意識していないと思う。流行しているブランド・イロなどしか気にせず、あの人に似合ったとしても、色や模様はバラバラであろう。特に若い女性の間に『テレビや雑誌のCMで好きなアイドル皆はそれを着ているから私も着たい』のような考え方もきっとあるだろう。他の例を挙げれば、最近若者の間に流行しているエモというスタイルがあるが、彼等の手錠や頭骨を表している黒ずくめの10代の若者の姿が私にとって全く理解できない。なぜかというと、その模様が全然いい意味を持つはずはないし、どうしてそれがそんなにカッコイイと考えられているかは私にとって不思議な謎であるからである。現在は洋服がどこでも買えるものであり、有名ブランドの高い服装を着ていても、『あの模様や色を表している洋服を着る』という精神的な、そして社会的な考え方が消えていくのではないかと思っている。5ー6歳ぐらいのとても可愛い男の子がお母さんに頭骨ずくめのズボンやシャツを着せられて通りを歩いてる姿を私は一回見たことがある。それを見るなり、私はとてもイライラしてた。自分の子どもはどんな服を着ればいいか、親の責任で親が決めるのであろう。きちんと親の役割に注意して、可愛い子どもの存在に似合っている服装を着せたほうがいいのではないかと私は思う。(マリアンナ)

色は子供のころから私にとって大切なことです。絵や絵を描くことに興味を持っているので、私にはあまり好きではない色がないんです。でも好みの色は状況によって異なります。たとえば大好きな若草色は服としてはあまり着ません。金色も好きですが、アクセサリーやジュエルとして選ぶのは銀や銀色だけです。金色のジュエルをあまり使いません。肌色に似合わないんです。欧米には色の意味よりたぶん色のタイプがもっと大切です。たとえばどんなタイプの人にどんな色が合うかなどです。春・夏・秋・冬のタイプもあります。それぞれのタイプにはそれぞれの特徴があります。髪、目、そして肌の色もこのタイプに入ります。でも自分のタイプを知っている人の数はハンガリーではあまり多くないと思います。もちろん欧米でも昔から色に意味を付けていました。たとえ白は雪のように清浄の感じがするし、赤は火のようにあつく、そしてバラの赤は恋の意味を持っています。緑は自然を象徴しますし、黒は死のイメージを持っています。欧米には色にもステレオタイプがあります。女の子にはピンク、男の子に青が着させる親がよくいますし、高齢者がカラフルな服を着たり明るいメイクアップを使うのはあまりよくないとか、結婚式にはホワイトやパステルカラーやクロが合うことなどです。(エステル)

色の対話はとても面白かった。確かに色は日常生活を少し変えることが出来ると思う。例えば自分の部屋の色とか、着てる服の色は、気分を変えると思う。それに気分だけではなく、猛暑の夏の日に黒い服を着てたら、すっごく暑くなるでしょう。動物の場合も色はよくとても大事な役割を果たす。例えばたくさんの鳥の場合は、色によってペアーを選ぶ。色はどんな力が持ってるか、そして人間の気分や業績を変わることが本当に出来るかについては今も研究が続けられているそうだ。ある大学は100メートルを普通のスポーツの服の選手に走らせて、少し休んだ後黄色のシャツに変えて、又同じ100メートルの時間を計った。結果、黄色のシャツで走った時間は3%ぐらい良くなったということがわかったそうだ。(アルネ)


昔から服、じゅうたんなどを染める色には美意識の考え以外にいろんな理由があります。ひとつは現代まで特別のいろの製作費は貧乏人にとって買えないほど高くて、ほとんど地味ないろしか使いませんでした。一般的に原色の意味を考えてまったく関係のないものが繋がり、例えば赤には恋、革命、悪魔を思い浮かべます。話した点は、今の社会では服のいろはどんなの役割を果たすのかでした。私は、いろの印象的扱いではなくて、差別がもっとも重要になったと思います。いまの時代の標語は個人主義で、きている服のいろ合わせで「わたしは人と違っている」ような承認を求めます。毎年代わってゆくファッションの流行のいろはほかのいろを劣等なものに見せるのでしょうか?いろの流行の立場がとてもかわりやすい場合には原色いろが将来色#1、色#2、色#3などになる可能性があるでしょうか?(ダニエル)

私達の生活では色やその選択は色々な場面で現れます。服を着るときを始め、部屋の色を決めるとき、目色の印象、そして自然の緑もそのいい例です。しかしこの数え切れない色の選択は意識して何か具体的な結果を得るためであるかと聞くとどうでしょうか。例えば服を着るときは必ず自分の気分に与える効果と他人の印象を目当てにして色を選ぶでしょう。あるいはヤーノシュさんが指摘したように、幼稚園や子供を宿る施設の場合は壁が特別な文様で、ある背の高さまで緑で、それからは白になるのが普通だと分かりました。なぜかというと、ちゃんとは理解できませんが皆が推測したのは緑が若くて、背の低い子供達に自然の印象を与えて心を慰める効果が出るのがありえるでしょう。でも白はなぜ必要かというと、自然の印象を考えて、緑の上に広がる空は雲が一杯あるので白く見えるでしょう。こういう考え方は色の選択によって子共たちの心に自由で、広い場所の気持ちを与えるのが目的かもしれません。しかし色に関する印象や色の象徴は人によって違う傾向だと思います。例えばこのテーマについて話しながら女性は男性より色の意味を深く考える傾向が分かりました。それに個々の色に対しての個人的な印象や象徴的な意味も個人差がありました。結論として言えるのは色に象徴的な意味があるということです。しかしその意味は普遍的か、限られた集団にしか当てはまらないかについてはまだ調べるべきだと考えます。この結論はジョウフィさんの研究に役に立つように希望します。(レベンテ)

色の意味や色が持つ力には国によって違いがあることが珍しくない。次に上げるのは一般の意味である。赤は血と火の色で、危険と愛・好色と戦争の意味を持っている。赤で書いたテキストや絵がよく見える。そのうえ血圧を上げる効果もあって、人がもっと早い決定を下すことができるようになる。その為、道路標識の色も赤になった。黄色は日光の色で、喜びと幸福の意味を持っている。黄色は見やすいので人の注意を簡単に引くことができる。黄色は暖かい色だが、濃い黄色は衰退、病気と孤独の意味である。緑は自然の色で、進化、調和と豊穣の意味を持っている。これは眼に最も楽な色で、病院や学校でよく使われる。緑色をある人が未熟だと言いたい時にも使う。これは日本語の「貴方はまだ青い」と同じである。緑は赤の反対であって、「OOをやっていい」という意味を持っている。青は空と海の色で、希望、忠誠、知識、信頼、名誉、と正義の意味を持っている。青は男の色と呼ばれている。白は純潔、清純、優しさ、質素、安全性とバージニティーの意味を持っている。病院で無菌法の意味を持つ。白は新しいことの始まりを示して、例えば結婚の時お嫁さんも白い服を着る。黒は死、病気、悪と優美さの意味を持っている。たいていはネガティブな感情を表すが、黒は優美な色でもある。(エメシェ)

自己紹介

はじめまして。私はサボー・レベンテと申します。22歳で、3歳からハンガリーに住んでいます。カーロリガシュパル大学人文学部日本学科のマスターコースの一年生です。日本語を勉強して四年です。日本語を勉強し始めたきっかけですが、もともと言語が好きで、世界の様々な言語の中でも非常に複雑で、挑戦できるものはこの日本語ほかならないと思って、決心しました。そして敬語に現れる思いやりや言葉をきれいに描くなぞの漢字や切りのないほど多い語彙などが特に気に入りました。日本語以外の趣味は走ることや英語や化学や教えることです。たくさんありますが、実はぼんやりするのはいやなので、目指している方向へ進めるのなら忙しくても平気です。長所は素直なところと、明るい性格で、諦めるのはいやなところです。ただその反面、真面目すぎて、のんびりできないところがあります。では、これからみなさんとうまく協力ができるようにどうぞよろしくお願いします。


はじめまして、イリミ・ジュジャンナと申します、でもジュジとよんでください。ハンガリーに住んでいて、今はカーロリ・ガーシュパール大学日本学科のマスターコースの一年生です。私の修士論文はオンライン漫画についてになると思います。そのために文部科学省の奨学金で日本に行きたいと思っています。日本には興味があるのですが、どのフィールドが一番好きなのかまだわからないので。とりあえず日本と日本人と文化についてもっと知りたいと思います。でももちろん人生は勉強だけではないです。読書、ゲーム、絵を描くことが趣味で、そして時々コスプレもします。好きな音楽はポップです。例えば嵐、Lady Gaga(レーデイ・ガガ)などが好きです。最近見た好きな映画は「ヒックとドラゴン」です。よろしくお願いします!


私はラーザール・マリアンナと申します。24歳で、A型です。今年の9月からカーロリガーシュパール大学の日本学科の修士一年生です。日本語を5年前から勉強していて、去年は1年間日本に留学することができました。私の研究テーマは東アジアの古代時代の主に古墳壁画として現れる四神信仰や四神相応の大陸から日本への長い道という考古学的な分析です。興味のあるテーマは日本の古代歴史を始め、考古学や神話、古代美術などです。日本語がものすごく大好きで、それ以外に英語や韓国語も少しだけ喋れます。趣味は歌を歌ったり、ミステリーを読んだり、ピアノを弾いたり、マンガを読んだりすることです。将来の目標ですが、私は日本の大学で考古学を学びたいと本気で思っていて、真剣に日本の考古学者を目指しています。


はじめまして。カーロリ大学のヴルシュ・エリカと申します。日本語の勉強を通じて別世界に入ることが出来ると思います。日本の思想や宗教、特に自然に関する考え方と心身関係論に最も興味を持っています。そのため、私は日本語の勉強によって今このような世界に入りたいと思いっています。私の書いた文章には間違いがいっぱい入っているとおもいますが、皆さんのご意見をいただいたら幸いです。どうぞ宜しくお願いいたします。


はじめまして。私はハイナル・クリスティナと申します。ハイナルは名字で、クリスティナは名前でございます。出身地はハンガリーの首都のブダペトです。ブダペトの郊外にある住宅地に家族と一緒に住んでおります。年は23才で、今年大学を卒業しました。現在、ブダペストのカーロリ大学日本語学科の大学院生です。大学では専門は翻訳と通訳なので、将来にもこの専門を生かせる仕事をしたいと考えております。「どうして、日本語の勉強をしますか」と人によく聞かれております。実は、いくら考えても、きっかけというほどのきっかけはありません。ずっと、子供の時から東洋と日本に興味を持っていて、興味深く侍などについての映画を見たり、本を読んだりしながら、いつか日本語を話せるようになりたいという夢をもっておりました。まだまだ完璧には程遠い私の日本語ですが、今からもっと能力を深めたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。


はじめまして。ハラース・エステルと申します。よかったら、エステルって呼んでください。 私はハンガリーでカーロリ大学の日本学科の修士課程で勉強しています。専攻は社会学です。卒業論文のテーマは「オタク」でした。まだオタクの研究を続けています。趣味は日本の手話や音楽を聴くことです。 好きな音楽は色々です。ロック、ポップ、ジャッズなど聴いています。友達と一緒に遊んだり、買い物したりが大好きです。よろしくお願いします。


はじめまして。ハナーク・ヤーノシュです。29歳です。カーロリ大学に来る前にELTE大学の日本学科を卒業しまして日本学のMAを得ました。副専攻は中国語でした。そこでは古典の「文語」に親しみました。日本語でも古典日本語に強い興味がります。以前は英語学部に通って、英語の現代文学を専門にしたので、英語の言語学も今の学習に影響を及ぼしています。8年ぐらい前から翻訳者として働いています。。テレビとDVDの作品の吹き替えと字幕を作っています。勉強と同時に仕事をするのが大変ですけど、がんばったら両方とも成功できるのではないかと思います。


はじめまして。Csordás Gyula(チョルダーシュデュラ)と申します。日本語を勉強しはじめてもうすぐ6年になります。日本語を勉強するきっかけと言えば、日本の音楽やアニメでした。自分はカーロリ大学に入学した前に、リスト音楽大学のジャズピアノ学部に申し込んだことがありますが、練習が足りなくて、結局入試は受けませんでした。しかしそれで音楽のことを諦めたというわけではありません。いま大学で日本語の能力をマスターしていて、ハンガリー人と日本人のミュージシャンや音楽家の間の交流をつくることを目的にがんばっています。日本の音楽に興味を持ってる方は気軽に声をかけて下さい。宜しくお願いします。


はじめまして。ウイハーズィ・ジョーフィアと申します。外国の方、特に日本の方に発音が難しい名前ですので、よくソフィーを使います。どうぞ宜しくお願い致します。現在はブダペストのカーロリガシュパール大学の日本学科の修士一年生です。3年前から日本服飾史を研究しております。また卒業論文において日本の伝統的な女性用衣服、とりわけ江戸時代の小袖に見られる文様に秘められた寓意や小袖独特の染織技法について執筆いたしました。2011年から日本に留学することになりそうですので、大変幸いなことに知識をもっと深めることができるようになりそうです。趣味は日本の近現代文学と小原流いけばなです。それ以外に園芸、茶道や日本陶芸にも関心を持っております。もし日本服飾史を研究なさっている方、また上に述べたことにご興味をお持ちになる方がいらっしゃいましたら、メッセージをお送りいただければ幸いです。日本の美学をご一緒に楽しませて頂けたら嬉しいです。どうぞよろしくお願い致します。

ホルバートダニエルといいます。ブダペスト出身で、22歳です。私はカロリー大学で日本語能力を強化したいです。わたしが短い作文のテーマを決めるとき、日常生活に入り込んでいる特殊な点から近付いていくものを選ぶ傾向が多いと思います。よろしくおねがいします。


はじめまして、アルネです。23歳で、今カーロリ大学のマスターコースの1年性です。BAの卒業論文は宮本武蔵について書きました。武士や武士道に興味を持ってるので、このマスターコースでも同じテーマを続けるつもりです。趣味といえば、色んなことがありますが、たとえばスポーツや音楽や日本の映画などが好きです。日本の映画で古い映画も好きですし、現代の映画も好きです。例えば、古い映画で小林正樹の切腹(1962年)がとても面白くて、もっと新しい映画だと三池 崇史の第三極道(1995年)が好きです。

私はパールル・エメシェトと申します。1988年に生まれた女性です。カーロリ大学に来る前にELTE大学におり、専門は日本学科で副専攻は韓国語でした。趣味は写真撮影とテレビゲームです。よろしくお願いします。

2ヶ国語カラオケは文化交流に役立つか

今週の授業で一見少しおもしろいが非常に興味深い二カ国語カラオケについて対話を行った。歌は人々の心を結びつけることができるに違いない。歌によって違うかもしれないが、音楽を通じてお互いの文化が理解できるということもたしかにそうである。が、実を言うと、このような機械はわたしにとってはすこし想像しにくい。目的はたしかに皆で一緒に歌えるということである。二カ国語カラオケを使えばハンガリーの歌は日本語で歌えるし、日本の歌もハンガリー語でうたえる。一緒に歌えたら楽しいはずであるだろう。だが、日本人とカラオケに行く人は日本文化や日本の音楽が好きだと思う。このような人は好きな歌をそのまま日本語で歌いたがるのではないであろうか。そして、言語は文化を反映するので、言語を変えたら、文化の一環も失われるのではないか。例えば、私にも分からない言語の大好きな歌がある。歌いたいとは思うが、この歌をハンガリー語で歌いたいと思ったことは全然ない。なぜかというと、外国語で好きになったし、その外国語が綺麗に聞こえると思うからである。外国語だからいっそう綺麗だといってもいいかもしれない。翻訳してしまったらもう同じうたではないような気がする。たとえば、英語のバージョンもあるが、それを聞く時はまったく違う感じがする。いい歌手なら、言葉がわからなくても、歌に反映される感情や気持ちが伝えられると思う。言葉の分からない歌を聞く時、どういう意味か想像してみるのも楽しいであろう。カラオケで発音だけが書いてあったら歌えると思うし。このような機械が必要かどうかすこし判断しにくい。しかし、少なくとも一回使ってみる価値がある。(エリカ)


Gyulaさんが述べた「日洪二ヶ国カラオケ」という装置は結構興味深いアイデアだと思います。ハンガリー人の私たちは日本人と深い友人関係を築いてみる時、よく困ってしまいます。もちろん、そういう問題は日本人のせいではなく、文化的背景の違いがコミュニケーションに非常に影響を与えているからだと思います。私の経験では、他国、つまり他文化からやってきた人の考えを深く理解できるようになるために、まずその国の言語とアートを調べること肝心だと思います。言語とアートを通してその相違する文化的背景から来る人の心を分かるようになると信じています。音楽もそうです。お互いの音楽を通して、その異文化の特徴やお互いの気持ちを理解することができます。Gyulaさんの「一緒に英語の歌を歌えればどうでしょうか」という質問に答えると、英語で歌うことはきっと楽しいですが、日洪交流の場合は十分には効かないと思います。なぜなら、お互いを理解できるようにするには、まずお互いの母語を理解しないといけないからです。その上、「音楽の道」は日本人の場合は非常に効果的になるものです。カラオケを随分楽しんでいるように見える日本人と一緒に歌えれば、ハンガリー人ともっと仲良くなれて、実りある交流ができるはずです。そして、文化交流が進むにしたがって相互理解が深まっていく可能性も高くなります。その装置は学生の間だけでなく、ハンガリーに設置された日本の企業に働いている日本人とハンガリー人の方の間でも効果的に使用できます。たとえば、同僚が仕事の後、遊び時間も一緒に楽しめるなら、雰囲気が良い職場と働きやすい環境を作れます。それで、もし本当に要求があったら、そういうカラオケ装置を実現する価値があるはずです。(ソフィー)


日本人とハンガリー人の間の音楽のやりとりについて考えると、普段思うことはやはりクラシック音楽である。とはいえ、クラスメートの「日洪二国語カラオケ」の発表を聞いた後で色々考えた。昔から、人々は一緒に音楽をすること(作曲、演奏、コンサート、カラオケ)が好きだと思う。歌いながら踊ったり、飲んだり、盛りあがったり、笑ったりして、一緒に歌うのはものすごく楽しい時間の過ごし方だと思う。全く違う国から来た人の場合はお互いの国の曲を知らないはずであろう。だからジュラさんの意見は、日本人とハンガリー人が一緒に歌っているときに、レンタル用に作られたカラオケ装置を使って、スクリーンで流れていく歌詞が日本語だけではなくハンガリー語もあれば、お互いの国の曲をきちんと分かるようになるだけでなく国際交流もできるということなのだろう。それは確かにそうかもしれない。しかし、私の意見としてはこのカラオケ装置はあまり使えないのではないかと思う。最近日本に行っているハンガリー人の留学生、そしてハンガリーに来ている日本人の留学生の人数が増えてきて、お互いの国のポピュラーミュージックの曲を大体皆知っているのではないかと思う。そのような状況の中でブダペストのカラオケに行っている留学生や働いている日本人の方に歌詞の日本語バージョンは本当に必要なのであろうか。カラオケに行って、訳した歌詞を歌うことには意味があまりないと思う。元の言語で歌っても十分楽しめると思う。しかもカラオケはどちらの言語のいい練習になれるし。たとえば日本で日本語を勉強しているハンガリー人にとって、自分が感じたとおりの歌詞で歌ってみたら、すごくいい練習になる。だからハンガリーでも、ハンガリーの曲を日本人が歌ってみたら同じように言語の練習もできるし、文化交流をこれでも十分できるし、一緒に歌っている友達ときっと時間を楽しめることができるはずだと思う。けれども、今回のアイデアは新鮮で面白い。(マリアンナ)


ジュラさんの日洪二ヶ国語カラオケのアイディアはすごく面白そうです。最初はよく分からりませんでしたが、発表を聞いているうちに「あ、やっぱりこれ楽しそう」と思いました。一番気に入ったのは、ジュラさんがこのアイディアを日本人の友達とカラオケをした時に考えたということです。日本人も乗り気を示すと聞いた時ちょっとびっくりしたけど、ハンガリーの音楽や文化に興味を持つ日本人がいるのはとても嬉しいです。グループで話したとき「どうやってこの日本人とハンガリー人を繋ぐ装置を作るか」とか「曲の背景を説明する動画は必要かなぁ」とか「日本の曲でよく使われる英語の言葉は訳すかどうか」などの問題について話しました。どうやってこの装置を作るのかについての話はどうやってこの装置を使うかに途中でかわりました。私達のアイデアは以下の通りです。まずメニューでハンガリー語と日本語の歌詞を選びます。そのあと日本語なら漢字・かな・ローマ字から字幕を選べます。知らない曲の場合では最初にボイス・オンを選んで、一回聴いてからカラオケモードで歌うことが出来ます。歌う時は歌詞の下方に訳した意味も出ると便利そうだとういことになりました。どうやって歌詞と訳したものを同時に読むのかはまだ問題ですけど。次の問題は曲の背景を知らないと歌詞を分かっても意味が分からないのではないかということでした。そんな時はカラオケの歌詞の後ろに動画とか、背景を説明する写真とかを入れるのはどうかとうい意見がありました。こうすれば背景について説明できるのですが、どうやって歌詞を読んで、同時に後ろの動画を見ればいいかが難しそうです。たぶんこれも、知らない曲と同じように、メニューで選べるようにすれば良いと思います。英語の言葉を訳すの問題についてはいろんな意見がありました。残す、訳す、そして普通に皆が知っている言葉を残して、他を訳すという意見もありました。私はたぶん、カラオケの歌詞を曲の意味が分かるように訳せばいいだ思います。まだ考えなければならないこともありますが、もしジュラさんがこの装置を本当に作ったら、私はこのようなカラオケをやってみたいです!(エステル)


先週の授業では、ジュラさんの構想について相談しました。そのアイディアは「日洪二ヶ国語カラオケ」でした。ジュラさんのアイデアにはとてもいい点があったと思います。このカラオケで日本語も、ハンガリー語も歌うことができます。これによって二つの文化をかんたんに勉強ができると思います。授業で、訳した曲を一緒に歌ってみた後で、グループでどんなハンガリーの曲を訳せばいいのかについて話しました。そのとき、たくさんの古いの歌が出てきました。例えば「悲しいサムライ」の曲です。。この作品はコジョーと言う歌手の曲です。ただ、ハンガリーの曲を日本語で歌うととても面白いですが、そして日本語の歌をハンガリー語で歌うこともおもしろそうですが、二ヶ国語カラオケは本当に良いのかわかりません。カラオケは遊びとしてはいいですが、お互いの文化をもっと知りたい人にいいものなのか。翻訳すると少し違う意味になって、歌の感じも少し変わりますから曲の本当の意味は多分他の国の人は分からないです。またグループで日本人とハンガリー人は違うから合う歌や合わない歌があるのではないかという点についても話しました。例えばジュラさんは「Azok a
boldog szep napok」の歌を見せてくれました。でも、この曲は彼女彼氏のことがあまり好きではない人の曲です。日本でこのタイプの歌があまりないと思います。ですから、これは多分問題になるでしょう。実際、誰かが外国で行って、その国で二ヶ国語カラオケを使ってその国の曲を自分の語で歌うのはどこか無理があると思います。曲を知っていれば多分出来ますが、知らない歌の場合は難しいくなるでしょう。でもこのカラオケは遊びと考えればとても面白いです。(ジュジャンナ)


まず、私はカラオケに行ったことがないと知った上でこれを読んでください。(ただ、アニメーション、テレビドラマを見た経験から、そして友達が教えてくれた経験からカラオケの楽しみはだいたい分かってるつもりです。)私の意見ではカラオケは楽しければ楽しいほどいいもので、もちろん国際カラオケを改善する二ヶ国語カラオケはその点、有望ななものだと思います。議論になった点は「歌詞の字幕をどうするか」でした。「カラオケはどうしてたのしいか」の視点で分析すれば字幕を入れる理由は2つあります。一つは曲の歌詞を歌えるためで、二つめはその歌詞の意味、情感や曲が生まれた背景をしるためです。もし色んな情報がわかったら、一緒に歌っている人たちの心ももっと近ずくことが出来ます。一つ目につては、歌詞が母語でない人たちに母語でどう発音するか書けばよいのではという話になりました。二つ目については字幕の下に歌っている文の翻訳文を書いて、スクリーンの横に歌の情報を映せばどうだろうかという話になりました。(ダーニエル)

同級生のジュラさんが先週発表してくれたテーマはこれから研究して行きたい新たな装置の二ヶ国語カラオケでした。こういうマシンは必要かどうかと対話をしながら火曜日の授業で話し合いました。この対話の結果をこれから述べます。実は、必要かどうかというより楽しいかどうかがわからず何人もの同級生が悩んでいました。その悩みの根本にあるのはハンガリー人にとってカラオケという物があまり知られていないことでした。しかし新たなインフォーメーションとしてジュジャさんが言ってくれたのは彼が日本人とカラオケに行ったことがあるということで、それどころか多くの皆がカラオケを日本人と一緒にやったことがあるというので驚きました。この知識を仕入れて、二ヶ国語の必要性が広範囲ではなくても、眼に浮かんできました。ハンガリー人のなかで日本人と付き合いたい人はもともと言語の難しさが故に少ないと思っていました。日本人と付き合える人はやはり何かの形で日本語が出来る人でしょう。でも日本語が出来れば日本語の曲をハンガリー語に訳す必要はないかもしれません。逆に日本語が出来ない人は日本語の歌にハンガリー語で振り仮名がついているからといって日本人とカラオケを付き合いたいという思うかどうかわかりません。歌う前も、歌った後も、言葉が通じるかどうかはわかりません。この問題を解決するために日本語とハンガリー語より英語でディズニーの歌を歌えばどうかとベロニカさんが提案してくれましたが、しかしそれだとジュラさんの発想から遠くそれるので二ヶ国語のアイデアに戻りました。結局たどり着いた結果としては、「この装置は必要に違いありません。しかしどれぐらい必要か、誰にとって必要か、実際にうまくいけるだろうか確かめるためには一度試してみる必要がある。」ということでした。ジュラさんのアイデアが完成できるよう応援します。(レベンテ)

先週日洪二ヶ国語カラオケという面白い考えについてのスピーチを聞いた。この機械の主目的は日本人とハンガリー人との団結を強めることである。カラオケの場合、私は二つの国のカラオケとの関係が問題になるかもしれないと思う。現在のハンガリーではまだカラオケが盛んになっていないので、大勢の人がカラオケをよく知らない。歌うと言っても特に田舎に住んでいる50代以上の人は友達や同僚と一緒に酒を飲んで家や旅行で古いハンガリーの歌を歌うのが好きだ。たとえカラオケに行ってもその人は同じ歌を歌うことになる。けれどそれと同時に若い世代の人たちの中でテレビ、インターネットとビデオゲームのおかげでカラオケを知る人の数が増えている。日本とハンガリーの文字が違うので日洪二ヶ国語カラオケがあったらそれに気を付けなければならない。一般人にとってはお互いの国の文字を読むのは難しいかもしれれないので、ローマ字とカタカナが必要になる。問題になるのは歌詞である。意味が分からなくても歌を楽しめのかがわからない。私はメロディーのほうが大切だと思う。なぜなら人の心を奪うのはメロディーだと思うからだ。もちろんいい歌を聞いたら歌詞が気になるけど、それを後でチェックしてもいいし他の人から歌詞の概要を聞くこともできる。もう一つの解決方法は歌っている歌詞の下に訳を入れることだ。訳した歌詞を歌うこともできるが、それはやりにくくて違う意味になる可能性もあるので個人的にはこのような自由な訳はあまり好きではない。なるべく直訳を使ったほうがいいと思う。最後にどんな歌を選べばいいという質問があったが、やはり量より質が重要だとおもう。(エメシェ)

最近同級生は「日洪二国語カラオケ」というアイデアを出した。それはハンガリー人と日本人が一緒に歌える装置で国際交流を深めることができると言う考えである。国際交流を深めるのは間違いなく大事な話題だが、このアイデアをちょっと考えてみると、色々な問題点があると思う。まず、日本に興味を持たないハンガリー人は日本の曲を知らないし、ハンガリーに興味を持たない日本人はハンガリーの曲を知らない。歌詞が書いてあっても音調を知らないとその曲を歌えないかもしれない。また、日本に興味を持たない人はカラオケに行っても多分日本の曲を歌いたくないかもしれない。ハンガリーに住んでいる日本人も決してハンガリーの曲を歌いたいわけではない。お互いの文化に興味を持つ人の場合は、たいてい言葉にも興味を持つ。例えば、ハンガリーの若者の中で日本ポップカルチャーが好き、日本語の発音も好きで言語を勉強していなくても、日本語で歌う人が多い。日本語を勉強している人の場合はもちろん自分の能力を深めたくて、できるだけたくさん日本語を話したり、歌ったりしたいのではないだろうか。それに、国際友好関係にある人々はいつもお互い決まった言語で話しをする。それは、誰かの母国語であるかしれないし、英語であるかもしれない。だからカラオケにいってその言語で歌うのことになるのではないだろうか。あるいは両方が知っている英語の曲を選ぶことも多いかもしれない。それで、二国語カラオケ装置が存在しても使う人が本当にいるのだろうか。つまり、需要があるのだろうかという疑問がある。次に、このような考えを実現するのは難しい。歌詞を翻訳して、原語の歌詞に加えると、スクリーンは混雑する可能性がある。情報学的に考えても日洪二国語カラオケ装置を作るのが難しいだろう。さらに、一番深刻な問題点は著作権を守るのが難しいことである。人の作曲を翻訳して、かってに使うことはいけない。けれども、曲の一つ一つの作者から許可を得て、その使用代を払うのは大変である。つまり、二国語カラオケ装置を作るのは難しいし、需要もあまりないので本当にそれを作るのは役に立つが疑問である。上記の問題点に注意しながらこのアイデアを改めて考えた方がいいと思う。(クリスティナ)

多分、ハンガリーにカラオケの習慣があまりないので、ハンガリー人にとっては、カラオケはちょっと変かもしれない。一方、日本語を勉強してる人は日本の文化や習慣にも興味を持っているはずだから、こんな学生はきっと喜んで試すと思う。確かに、詩と歌で言葉を覚えるのは一番早そうだ。それに日本人と一緒にカラオケに行くのは、きっと良い勉強になる。日本の人気の歌も知るようになって、日本人と学校以外で会うのもとっても良い経験になる。カラオケに行く人は歌だけではなく、日常会話も練習できる。教科書だけから学んだら日常会話は勉強できないので、日本人と会って、練習することは大事だと思う。短所といえば、日本とハンガリーの言葉遣いとかは結構違うので、お互いの歌が分からない可能性があるということである。それにハンガリーにカラオケの習慣はないので、特に日本人の前で恥ずかしくて歌いたくない人もきっといると思う。(アルネ)

私は今年日本人客の集団にごちそうされ、代わりに、私たちハンガリー人が優しくておもしろい話し合いの場をつくるという会に参加した。そこで話し合いが歌会に変わり、日本の代表的な曲を歌おうと誘われた。曲調が簡単だったので、ノートで書かれた歌詞を読みながら、日本人と一緒に歌うのを楽しめた。その後、日本人の集団はすでに練習したようなハンガリー語の曲をびっくりした私たちと一緒に歌った。ノートに書かれたローマ字の上に、発音を示す仮名文字が付けられ、その上は漢字で大体の意味までも付けられていたる。これは本当に名案だと思った。日本語で片言ぐらいしかできず、日本人と会うことを切に望むハンガリー人も、歌を通じて希望を遂げられるからである。日本人の場合も同じである。日本人の留学生なら、新しい環境を全然知らなくても、仲間と一緒に歌えさえすれば、安心な気持ちになるであろう。歌うことが世界中みんなが楽しむことであろうからである。このように二ヶ国語のカラオケも役に立つ機械になれると思う。歌うのもそうだが、カラオケは、ハンガリーでも日本でも盛んな遊びである。歌のスタイルは違うが、ハンガリーのどこかの居酒屋に入ると、一つの角で集まった仲間たちがカラオケを一生懸命やることが珍しくない。日本も同じようである。それで、二ヶ国語のカラオケは、雰囲気のいい接待などに便利なおもてなしセットになると思う。二ヶ国語のカラオケは接待の場でそのままでも交流を楽しませる機能がある。しかし、もっと進化したら、お互いの文化的な背景情報も伝えられるものになる。歌詞の発音と意味を示すと同時に歌の歴史的な特色と歌詞の意味を超える象徴的な意味を紹介したら、お客さんが相手の国のことについて習えるようになる。こうして得た知識は、以降の話し合いの話題になり得るので、二ヶ国語のカラオケは交流を深める道具としてとても役に立つと思う。二ヶ国語のカラオケの発展は技術的な問題だけである。歌の背景情報を紹介する機能も入れたら、言語教育にも使用できる機械になる。その目的を目指すと、利用者の数も増え、クラブや交流基金などの他に、ハンガリーにある日本語教育機関、または日本にあるハンガリー語の教育機関の魅力もずいぶん強くなると思う。(ヤーノシュ)

移民法はどうあるべきか

移民問題

最近、移民に関する問題は世界中に広がっている。その理由の一つはグローバリゼーションにより、大勢の人たちが外国で就職したり、家族を作ったりすることができるようになったことがある。けれども、歴史を見ても同じ様な移住があったのに、それは現在のような問題を起こさなかった。最近はなぜ問題に成っているのだろうか。19世紀には欧米の国々で「国民国家」が生まれ、それと共に「国民意識」も生まれた。国民意識ができるまえまでは、「移住」や「移民」という言葉が必要もな
かっただろう。一方、最近は国民意識が強くて、グローバリゼーションがいくら広まっても、人々の外国人に対しての知識が少ない。知らないことをこわがるのは人間の性だろう。ハンガリーの場合は、それ以外の問題もあると思う。ハンガリーは社会主義国家であった40年間に、外国語教育はあまりなかったとも言える。そのせいで、現在のハンガリーでも若者以外外国語が話せる人々が少ない。その上、当時は外国旅行禁止措置もあった。外国語が話せないし、外国に行ったこともない人々は、外国人に会う可能性もあまりないだろう。それで、他の民族の考え方や習慣、宗教などが分かろうとしない人々は現在のハンガリーでも案外少なくない。もちろん、移民問題は簡単に解決できない。しかし、お互いの文化や考え方をちょっとだけ調べ、お互いを「外国人」ではなくて、「個人」と見なしたら、解決に一歩近づけるだろう。(クリスティナ)


ある問題を解決できるには、その問題の根本までに戻ってみるべきです。それで、世界中で見られる移民問題の騒ぎを検討してみます。一人あるいは家族全体が自分の国を離れて、遠い異国まで行って、住もうという決心の原因はなんであろう?私の考えでは二つの理由があります。一つは移住者の日常生活が悪化して、自分や家族の生活低水準を保証できなくて、あるいは安全さがなくなったということです。たとえば国が戦争に巻き込まれるなどが有り得ります。他方では個々人が自分の才能を
発揮できない、国にチャンスが見つからない場合、国を離れることもあります。両方とももっといい状態を望むために起こります。フランスが立法した移民法には賛成するしかないです。フランスはフランス人が今まで努力した生活を守ろうとします。フランスにはフランス人と共に努力し、仲良く、文化を理解できる人しか入らせません。そうではなければ、次はフランス人が不安になり、移民します。移民というのは、特に不法移民について言えば、困難から逃げ出した人だと思います。フランスのような移民者にとってターゲットになりやすい国はその移民者を自分の国に帰らせるよう援助し、自分の国の現状を改善できる機会、改善する権利がいつもあると覚えさせるべきであると思います。(ダニエル)


2007年のフランスの移民法の問題はやっぱり簡単なことではありません。よく見ると両者の意見が正しそうです。でも、私の意見ではこのフランス語を習得し、フランスの価値観を理解し、親子関係を鑑定するという法律はフランスの国を、フランス人を守るために作っているものです。長期滞在したい場合には移民が国の言葉をちゃんと解る、そしてこの語を使うことができるのは一番大切です。私の意見では、コレがないと滞在したい人たちは自分にも、国にも面倒をかけることになると思
います。移民にとって一番難しいことは仕事が見つかることですが国語を話すことができないと、仕事も出来ませんから。そしてやっぱり他の人の話がよく分からない生活はなんか怖そうです。私はそう思います。フランス語習得とフランスの価値観を理解するというのは、その人の決心も試しているのだと思います。時間があれば、人はどんな語もあるレベルまで学ぶことが出来ると思います。このぐらい出来ない人を長期滞在させるのは本当にいいのかなと思います。一方、この移民法の弱点もあると思います。他の国の価値を、他の国の伝統を分かるのは簡単なものではありません。そんな知識を得るには時間もかかるんです。グループで話したとき、誰かがDNA鑑定はよくないと言いました。なぜならDNAの資料を国が持つのはちょっと怖いからです。私はそれもよく分かりますけど、それがほんとに大問題なのかよく分かりません。悪用が出来るのは本当ですが、本当に悪用する可能性はあまりないと思います。フランスの移民法は良いとこも弱いとこもあるんですけど、これはフランスの国を守るためによく話し合って決めたと信じたいです。いい事を残して、あまりよくないことをまた調べ直して、国にも、移民にもよい正当な移民法を作るのが一番大切だと思います。(エステル)


移民が多すぎることは世界中の先進国で問題になっています。もちろん、普段一緒に平和に住んでても、移民に対しての差別とビザの問題がどこにでもあります。日本は島国で昔からずっと移民は多くなかったんですが、経済が強くなって二十年ぐらい前にアジア系の人が増えてきたと思います。フランスの大都市とイギリスのロンドンみたいに様々な国の住民が集まると、確かに問題になりそうです。様々な文化、母語、宗教を持っている人の場合は大きな問題が出る可能性が高くて、移民に対す
る特別な法律が必要だと思います。ですから、私はフランスの移民法に賛成できると思います。外国に住んでいる移民は厳しい意移民法は差別だと言うかもしれませんが、逆に疑われることにならないように、ある意味で移民のことも守る法律として見なしたらいいと思います。フランスの移民法の一番厳しい点は入国前にフランス語のテストに合格しなければならないということだと思います。言語の能力が少ない人もいるので、入国前にテストを受けるのが少しひどいと言われるかもしれません。合格しなければならないテストはどのぐらい難しいのか知りませんが、場合によって(フランスに働きに来ているか、結婚相手として来ているか)入国した一年後も同じテストを受けられるようにすればいいと思います。しかし、コースの料金をフランスが費用するのはすごいと思います。国によって移民の人数、起きる問題の種類が違うので、異国に対しても合う一般的な法律を立てることが出来ないと思います。国はそれぞれの移民に対するの法律をその国の状況によって立てないといけません。(シャーラ)


今週の授業で皆さんと移民問題について話したが、様々な問題がフランスの状況のようにはまだなっていないといっても、ハンガリーの人口がますます減っていくとともに、移民やロマ人の人数が増えつつあるということを耳にすることが多い。そのために、ハンガリー人が自分の国で少数民族になってしまう時間が来ると思う人も少なくない。このような状況にならないように政府が責任を取らなければならないであろう。どうしてかといえば、政治家は現在の自分の利益を考えるあまり、国民の福祉のためにハンガリーの経済も、ハンガリー人の権利も守る余裕はなさそうだからである。このようなことでは、ハンガリー人は自分の国で満足して暮らすことができる状況にはならない。同時に、生活水準がさらに低い国もたしかにあるが、このような国の人にとってはここの状況が望ましく見えるのも不思議ではないであろう。不満の理由はまずここにあるかもしれない。また、文化の問題もあると思う。平和に一緒に生活できるために、移民は国の文化を十分に理解し、適応することが必要だと思う。もちろん、自分の文化を守ることも重要であるが、最も大切なのは、お互いの生活を邪魔しないように暮らすことではないであろうか。ロマ問題も民族のせいではなく、文化の違いから生まれるのではないかと私は思う。つまり、ロマ人の気質や生活様式がハンガリー人とあまりにも違っており、お互いの穏やかな生活を妨げ、平和に一緒に暮らすことができないということである。しかし、国の状況に適応しようとする責任は移民にあると思う。「郷に入っては郷に従え」というような諺はどこでもあると思うが、この表現にも同じ考え方が見られる。様々な国の人が一緒に生活することはいいところもあれば、問題になるところもある。お互いの文化を理解し、様々なことを勉強することができるので、人生が更にカラフルで、豊かになれると思う。ただ、お互いに対する理解や寛容が不可欠なものであろう。(エリカ)


いくつかの年が経るとハンガリーは、ルーマニアなどからハンガリーに働きに来る移民に対応しなければならなくなるようである。ハンガリーにおける不景気より隣の国々の経済的状態が強いという傾向がこのように続いていくと、その国々の人がハンガリーに来させる動機が何だろうかと問わず、本稿の作文はハンガリーの移民問題に応じる対策を考慮してみる考えを述べる。ヨーロッパの全体のように、ハンガリーも高齢化が大問題になった状態である。社会の減っていく一層が人口の全体を支えなければならないという問題である。というのは、ハンガリーの社会は、援助が必要であり、移民を誘うべきではないだろうか。移民労働者までも、自分の国で納税するものであるので賃金から雇用の現場の国が実際には利益を受け取らなくても、移民の労働を通して国富が加えられるからである。しかし、移民労働者と移民を誘う目的に決まったらどんな政治を従えばいいだ賃金が最重要なことだというのはもちろんのことである。賃金が十分に魅力がある状態を得たら、頼りにできる雇用環境が必要である。例えば、通信の問題を職のよって解決するべきである。ハンガリー語能力が少ししか必要ないならば、適当な通訳を保険し、言語能力の必要な程度が上がれば、上がるほどに適する無料の言語教育を保障すれば利くと思う。家族連れの移民ならば、子供に無料の教育を与えるのも大きな誘因になり得るだろう。その教育を伝える教師の人材を教養するためには、教育学を中心にする教育政治を目指すべきだと思う。それに、移民が生活を安全で快く暮らしやすくするためには、文化的な自由を保障しなければならないだろう。ハンガリー政府の最近の政治を調べると、ルーマニアで暮らすセーケイのハンガリー人はルーマニアでいて自治を目指す努力を援助してみょうという傾向があると分かる。だが、セーケイの人を「ここに暮らしてきて」と誘うのは、ハンガリーに長期的な利益を生じる可能性があると思う。こうしては、通信の問題を無視できながら、高齢化の率を修理し得るかもしれない。しかし、そんな対策を実行するためには、国益を明るく見る必要があるだろう。政府だけではなく、統一した国民の全体もそうである。理想的な世界では、これの実現が可能であるかもしれないが、実態は違う。次の二十年には移民が二百万人もハンガリーに来るようだと計算した最近の調査にあっては、政府はすっかり慌ててきたように見えた。そんなことも政府にだけではなく、多くのハンガリー人の場合にもとても見知らぬ状況であると思う。経済的な問題を別として、移民問題は深い文化的な問題とつながり、対応には安定した文化的な意識が必要である。残念ながら、ハンガリーのこの自分に対しても安定を遂げず、自分も敵として扱うままでは、移民問題を有効に向かえるのは無理だと思う。(ヤーノシュ)


「移民法」という言葉を聞いて初めに思い浮かんだことは個人と法律、又は実際と理論がぴったり一致できない事実があるだろうということだ。いわば、立法者ができるだけ理想の法律を完成させるためにどんなに気を付けても、個人差という法律上の問題がまた残ってしまう。もちろん、人々をロボットみたいに統一したほうがいいというわけではないが、そうしないと、あちらこちらに常に現れたり消えたりする満足していない人の悩みが見えている。1つの例の一つとして、フランスの事件がある。2007年に成立した新移民法の場合、フランス人とヨーロッパ連合外から移住した、またフランス移住の希望を持つ外国人へのアプローチと外国人の関心が非常に相違している。私の個人的見解では上の移民法は厳しすぎで、特に親子関係を表すDNA鑑定は人権侵害とも言える。一方で、21世紀の先進国というフランスは、より良い生活を願っている外国人の世話をするべきだろうか。それは先進国の義務だろうか。そう考えると、フランス人の気がかりもよく理解できる。フランスの立場からみると、フランス国民、それと共に母国語、母国のモラル、母国の経済、簡単に言うと母国の将来を守ろうとしての政策と防止は当たり前な反応ではないか。もちろん、ちゃんと仕事をしていて、税金を払っている移民のことではないが、例えば数年前ニュースに見たパリの道で反仏デモしたり、まったく関係ないフランス人の車を燃やしたり、お店のグラスを割ったりしている移民は一体なにを考えていたのか。その移民は、もしフランスの法律を従うことができないなら、自国に帰って前の苦しい生活をしたほうがいいと思う。そして、フランス移民だけではなく、日本に移住した中国、韓国、ブラジル人、カナダとイタリアに移住したロマ、ドイツのトルコ人等、移民の皆も、より良い生活のために選んだ国の国民に迷惑をかけないようにその国の法律を守るべきだと思う。(ソフィー)


フランスの移民法がやっぱり厳しいです。私は移民した知り合いがないので私にとってこの問題は少し遠い世界の話のようでした。しかし鈴木さんの論文からたくさんの情報を集めることができた。実はフランスの移民法が厳しくみえますが、全部いいと思います。例えばフランス語を勉強する点が必要です。誰か他の国に住むのであればその国の文化を研究しなければならないと思います。文化とは言語・歴史・習慣・多分文学も含まれます。だからフランスが国語のテストを要求することは必要だと思います。これは多分あまり大したことではない。そして、研修もいい構想とおもいます。多分移住民はフランスについてなにも知らないかもしれないが、この国に住みたいのであれば、フランス人とかんたんに関わり合うためにこの研修を受けなければならないと思います。しかし、DNA鑑定はやり過ぎだと思います。ただの鑑定の結果で誰かがフランス人や、ハンガリー人やそれとも日本人であるかを決められないと思います。そのことは身体と関係ないと思います。もちろん誰がアジア人か、ヨーロッパ人かは一目見ればわかります。でも現代では、身体的特徴だけで人がどの国の国民だかを決めるべきはないと思います。だからDNA鑑定は不要と思います。移民は相手の国の言葉と文化を勉強すれば、国の移民になれると思います。それに、他の国でも移民には言葉の勉強が必要だと思います。アメリカでたくさん移民者がありますが、アメリカの言語は英語ですから、移住したい人、アメリカ人になりたい人は皆は英語を勉強しなければならないと思います。自由に生きるためには同じ言葉を話すことが必要で、コミュニケーションももっと簡単になれると思います。ただ、最近EUがアメリカのようになる言う人がいます。でも、もしEUがアメリカのような「国」になったとしたら、全部の国は(例:フランス、スペイン、ハンガリー、他)同じ語を話さなければならないでしょうか?でもこれはまた別の問題です。(ジュジャンナ)


先週の授業では、グループで世界の移民問題について相談した。話しの中で最初に出てきた問題はフランスの移民問題であった。フランスでは政府が不法移民ロマ人をルーマニアとブルガリアに強制送還する措置を開始した。不法滞在で法の保護を受けないまま異国にいる方が人権的にそんなに問題であるのかと考え出してみた。移民問題についての私の意見は、ある国にいる外国人がきちんと法の保護を受けたら、そしてちゃんとした仕事をして社会に役に立てたら、暮らすことが違反でなくおだやかに生活出来たら、これで十分ではないでしょうかということです。移民を受け入れることが国家にとってもちろんリスクを背負う可能性があると思いますが、「移民」というのは機械と物を受け入れるのではなく「感情を持つ人間」を受け入れると考えればいいと思います。犯罪外国人の場合はまた違います。例えば、グループの話しによって、多くのベトナム人や中国人はハンガリーに受け入れられて、あとその人たちが警察のレポートにより、いつも麻薬関係の犯罪に絡まれてるといわれています。それはハンガリーに来ているベトナム人と中国人の皆に関係あるのでしょうか?そうではないと思います。ただ、アジア人だからこそ、近くに犯罪があったらすぐ見られる。すぐチェックされている。移民差別というのはちょっと強い言葉かもしれませんが、確かに、犯罪の人も一杯いると思いますが、傾向ではない。しかしながら、ハンガリーのロマ関係の犯罪は最近本当に大きな問題に発展しました。仕事なくて、きちんと働いている人たちのお金をもらって、それはいけないと思います。先に書いたとおりに、社会に役に立てたら、移民でもハンガリー人でも私は特に区別しないつもりです。でも移民が犯罪者だったら、ある国の法の保護を受けなかったら、ハンガリーの未来の社会や未来のイメージを騒がす恐れがあると思います。(マリアン)


最初は移民問題は一体何だという質問の答えを探しましょう。日本のヴィキペディアによると「異なる国に移り住んだ人」とのことです。この定義はハンガリーの移民なら色々な国民に当てはまりますが多分一番目立つのはトランシルヴァニア人です。なぜかと聞くと私もこの定義では移民となりるからです。ルーマニアの国から来て、今はハンガリーに住んでいる人間として移民問題の有様を直接体験したことがあります。これからは移民という人間として経験したいくつかの思い出を述べてこの問題について考えることにします。私が自分と他のハンガリー人とは異なるということに気付いたのはハンガリーに到着してから三四年間のことでした。幼稚園のときは私がこの国に属するかどうかということを問われずにすみました。「お前は移民だ!」と初めて言われたのはだいたい小学校の三年生、四年生のころでした。このときすぐ私の頭に浮かんできたのは私を違うものとし始める他人の動機でした。なぜ私に違うところがあるのが人を怒らせるかという悩みがありました。分かってきたのは次の複雑な答えでした。動機は、私がいることでもともとハンガリー人だった人の就職競争が増える不安だ。この考え方はどれぐらい私を憎んでも抵抗できません。心の片隅では私も同情ができますからこの憎みを受けます。結局私を移民として逆らう動機を理解したと思ったら、同じ動機で全く反対の態度を体験しました。私は移民だという判断に至っても、変わらず仲良くしてくれた人は故郷のトランシルヴァニアのことを知って、大喜びで飛び出して来ました。なぜかと聞くと私がいくら違う人でも元ハンガリー王国の一部だったトランシルヴァニアの栄光ある歴史やハンガリーとの同一性がわかったからだと答えました。この人は私を大事にしたり、ジマンするほど私について話したりしました。けれども今はそろそろ23歳になって、また新しい答えが光って私を導くようです。深く考えてみると職業を守って、自分の家族の安全を一番大切にする人も、移民の人の中に、大昔にハンガリーの国民であった国民の子供がいると気付いた人も、結局同じミスを避けずに人を傷ついたり、偏見したりします。いずれも人を見分けて、グループを作って、一つのグループの意識や協力性を養いながら別のグループを全て無視して、置き忘れるのです。私が就職のジャマだと思う人は私に背を向けます。私は歴史上のハンガリー人だと思う人は歴史上ハンガリー人ではない人間に背を向けます。答えが見えてきました。それは「人間の結びつき」です。なにものかをとわず一緒に暮らす人間が私の理想です。私の理想が現実するように祈ります。(レベンテ)


外国人が他の国に移住するのは国々の民族にとって昔から問題だった。社会が発展して諸国の国境線が少しずつ消えていく今にはまさに大きい問題になっている。その現象の一つは最近フランスで起こったことだ。移民についての話になると、やはりどのような移民法を作るべきかとか差別の問題がでてくる。どちらにしろ、大勢の人は移民を受け入れるのは問題だと思われることには違いない。なぜその人々は外国人を簡単に受け入れないのか。それはたぶんナショナリズムや他の人種が受け入れがたいのせいかもしれない。その移民のなかにも特定の民族は他の民族よりも受け入れにくい。なぜならその民族に偏見を持っているからだ。私は、そんなことはよくないと思う。私にとっては受け入られない移民はいない。それは人を民族だけで判断するのはばかばかしいと思うからだ。確かに特定の民族、例えばアラブ人を見ると世の中に起こった事件のせいで時々少し不安になるが、人は民族と関係なくそれぞれ違うんだと自分でもよく分かっている。理由を一つをいうと、それは私にはシリア人の叔父がいるからだ。叔父はもう何十年もここに住んでいてハンガリー語も問題なし話すことができてなんの罪も犯しなかった。けれど例えば飛行機に乗ろうとする時、飛行機に乗る許可を得るのは難しくなる。それは彼はアラブ人だから。最後にEUでは人の動きは自由だという点もあるが、移民政策はどうあるべきかについての意見を考えたらまだはっきりした意見はない。フランスの移民法を見ると私にはそれに賛成する点がある。例えば移民はその国の法律や習慣を守らなければならない。安定した収入も必要だ。あと、重い罪を犯した犯罪者を国に入れるのは禁止したほうがいいとおもう。この作文で移民問題について書いたが、これから移民問題はどうなるか注意を払うべきだとおもう。(エメシェ)

なぜハンガリーがまだフランスと同じような移民法がないかといえば、答えは単純だと思います。ハンガリーは移民は比較的に少なくて、フランスのように深刻な状態までは至ってないからです。自分はハンガリーの移民の状況について調査したことがないですが、日常生活の中で移民はまだまだ少ないと言えるでしょう。例えばフランスのサッカーチームの選手を見ると、黒人だらけですし、ウィーンの道を歩いたら、黒人、アラブ人、アジア人ばかりで、移民の人数が明らかにハンガリーより多いです。私はただいま学校に通って18年目くらいになっていますが、いままでのクラスにはヨーロッパ以外の国から来た人は1人もいなかったですから、自分はハンガリーの移民状態は深刻だと感じません。それでも、もしハンガリーもフランスみたいに深刻な状態になったら、私もフランスの政府と同じく移民法を実施するかもしれません。フランスの政府の移民法で一番いいと思う点は移民が国の言葉を勉強すること、そしてその国の価値観を習うことだと思います。フランスの場合、いわゆるフランス人の価値観を勝手に移民に押し付けるのはありえないかもしれませんが、誰がフランス人かという問題がありますから、でもフランスという国はいまでも「フランス」と呼ばれているというのは、やっぱりフランス人の価値観が存在する証拠です。移民が違う国に引っ越したら、まずその国の事情、習慣、法律、価値観などをできるだけ習得してみるべき(とりあえず知るべき)だと思います。そうではないと国の間の堺の意味がまったくなくなるからです。(ジュラ)

現在の世界では、以前は微々であったが、それがどんどん深刻になっている問題が多いです。その問題の一つが移民問題です。移民問題はもっとも難しくてセンシティブ質問です。移民の基本権だけではなくて、選んだ国と出てきた国の経済や文化によっても問題が違います。ある国では国を閉じて移民を断わることももちろんありますけど、そういう法律作ったら移民の基本権に違反することになります。移民が困っている場合はもちろん政府が何をしなければならないです。ですから仕事をしない移民を国外追放するは短期的な解決でしかありません。なぜなら 移民は自分の国を出た理由がだいたい二つあるからです。それは自分の国ではいい仕事が見つからなくて生活できないということでもう一つは何か個人的・文化的な多難があったということです。もちろん仕事をしない人や社会で生活できない人間もいますけど、それは移民の問題ではなくて、世界的な問題です。その二つの問題を解決するのは難しいけど、移民問題にこたえるためのファーストステップになると思います。そして経済や文化がつながる問題を解決するためのシステムを作る世界的な会議が必要だとおもいます。(ヴェロニカ)

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