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対話の世界

カーロリ大学日本学科の議論の授業用ブログ

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英雄とは誰か

英雄になれる方法がいくつかがあります。英雄というのはだれもできない状況で優れたなにかをできた人です。昔の英雄と呼ばれた人は兵士だったけれども、1945年で戦争が栄光だと思われている時代が終わったと思います。英雄と呼ばれる資格も変わって、ひとの命を救う医者や消防士が模範になりました。更に自然災害に遭ったひとたちを助ける兵士もそうです。殺した人間のかずから人間を救うがずが大切になりました。マスメディアが放送するプログラムの巨大な影響によっても英雄の意味が変わってきました。英雄になる性格はだれにでもあります。どんな場面で出てくるかに違いがあり、一つ目は上で述べたの任務からの勇気、じぶんでは英雄と思わない、ただ仕事しているひとです。二つ目は恐怖から生まれる勇気で、命や大切なものを失うのがやだとおもって行動するひとです。たとえば飛行機の乗っ取りでテロリストを攻撃するひともあるんです。最後に私たちが知っている英雄はみんなだれかに見られて、認めて、教えたからです。だけどだれでも知らない英雄が昔も今もいるはずです。(ダニエル)

英雄とは何だろうか。どんな人物が英雄になれるのだろうか。なぜ私達は英雄を大切にして、尊敬するのだろうか。それとも、なぜ私達は英雄というものを必要とするのだろうか。難しい質問に違いない。英雄は一般人と異なって、特別な人物である。特別と言っても、それは王子様であることやお金持ちであることや大先生であることというわけではない。特別さはやはり心や性格の特別さである。頑張れば誰でもいい人やいい兵士になれるだが、英雄には限られた人々しかなれない。しかし、それは定めなどには関係なく、自分の性格だけに関係あることだろう。英雄であることは必ずしも幸せなことには限らないが、真の英雄は何があっても英雄の性格を失わず行動する。それは、いかにも尊敬すべきこと。私達人間は優れた人物になりたくて、でもなれなくて、だから本当に優れた人物の英雄を自分がなれないものとして大切にするではないだろうか。英雄は私達自身がなりたい者であり、自分でもしたいことをするからこそ英雄はこんなに必要なのだろう。(クリスティナ)

最近、私が注目した二つの映画の二人の英雄を紹介したい。一方は『レッドクリフ』という中国の映画で現れる、甘寧という歴史的な武将に基づいた人物の甘興で、一方は『センチュリオン』というイギリス映画で登場する虚構のクインチュス(Quintus)という人物である。つまり、現在のアジア的な英雄と現在のヨーロッパ的な英雄の比較の試みをしてみる。甘興は日本の代表的な英雄の原田重吉にもよく似ている。彼は誰も開けられないといわれた門に生死をかけて近づき敵の門を一人で開ける人物である。甘興は決死隊の勇士ではなく、勇気の軍隊を指導する武将である。自分の勇士に対しての深い関心が十分に描写されるが、甘興自身の能力や道徳的な値は勇士よりかなり高い。怪我した仲間を自分の体を盾にして矢から守った後まだ最後の攻撃に足りる力まで残っておる。自分の命を捨てて、門を破壊するに十分な爆弾を投げ、自分も戦争の生贄として死んでしまう。『センチュリオン』の主人公のクインチュスは映画の終わりまで生き残るが、彼が責任を持った団体の全員が死んでしまう。この人物は軍隊の戦敗にあって、生き残った兵士の隊長になるが、もともとは彼と兵士の位置がほぼ同じであった。運命に受けられた責任を背負って仲間を守ろうとする行動を通して彼の兵士に対しての関心も十分に描写される。しかし、クインチュスがいくら努力しても、力が足りず仲間がみな死んでしまう。責任の観点から見ると失敗しても映画に英雄として見なされる。彼は、活動の結果にかかわらず、活動の質のみ評価されるようである。ヨーロッパの歴史と伝統の中の英雄を思い回すと、中国の甘興のような例しか浮かんでこない。英雄は責任を取り、自分の命を駆けて目的を遂げる者として想像される。それでも、クインチュスの描写を見た時あまり驚かず、真新しい考え方を感じなかった。この人物は、西洋の現在変わりつつ英雄イメージの一つの例であろうかと私は考えた。(ヤーノシュ)

どんな性格を持っている人が英雄になれるかというと、中々難しい質問です。時代に応じて歴史的な状態と事情がいつも変わっていますが、英雄になるために必要な性格は多分同じだと思います。いつの話にしても、英雄の性格はだいたい一緒だと思うのに、その性格の本質を中々言葉で表現しにくいです。自分の時代の政治的な状態をよくわかってて、とても頭がいい人ではないと、英雄になれないと思います。そして英雄の性格の中で一番大事なのがいいチャンスを上手に掴むことです。チャンスをどうやってうまく掴んで、どうやってうまく使用できるのかをしっかりわかっている人ではないと、どのぐらい頭がよくても英雄になれません。(シャーラ)

エメシェさんのテーマは日本の英雄でした。たくさんの面白い人の話を聞きました。しかしグループで私たちは「コレは英雄なのかな?」と思いました。この人は中国人と戦って死んでしまったので私たちの考える英雄とは少し違います。例えば私にとって英雄は自分の国のために死ぬ人です。でもこれは足りないと思います。英雄は人生の中たくさんの大きなこともします。たとえば他人を手伝ったり、新しい薬を作り出したり、何か大きなことをしたりします。英雄は多分他の人にとってはあまり大した人ではないが、でもある人には必要な人です。例えば私にとって自分のお母さんは英雄です。あと、英雄の中にたくさん種類もあると思います。例えば人生の英雄もいるでしょう。この人はたぶん世界では有名になれないけれど、この人の友達と家族がその人を英雄と呼びます。英雄たちの一番大事な点は勇気です。そしてその「人生の英雄」は自分の勇気のおかげで大きなことを出来ます。だからどんな英雄について話すときも勇気は一番重要なキーワードになると思います。(ジュジャンナ)


典型的な英雄とはどんな人でしょうか。どんな性格をしているのだろうか。時代によって多少変わる英雄の姿の中で、どの点が永遠に残っている理想として生き続けていくのか。それは決して利己的と弱気というものではないだろう。まず、いずれにしても自分の国とその国の人を守ろうという意気を持っている人は英雄と呼ばれると思う。しかも強い心を持って、自分の感情と意志を考えずに、ずっと苦しんでいる他人を助けようと努力している姿が英雄の姿に値すると言える。その上、弱くて貧乏暮らしをしている人の面倒を看ても、代わりに何も受け取らないという性格を持つ人を英雄として私は想像する。しかし、そういう罪のない人が実際に存在する可能性があるのだろうか。ちょっと考えてみれば、今でも世界のどこかで戦争で戦っている軍人はよく英雄と呼ばれている。もちろん、彼らはある見地から見ると自分の国を守る英雄と見られている。しかし、その軍人は本当に英雄なのだろうか。自国の人や自分の信じている主義を守るために他国の人を残酷に殺すのは英雄的行為ではないだろう。それで、私が思うに上記にも述べたような勇ましくて英雄的な人がもちろんいるに違いないが、本当の英雄というものは、ユートピアにしか存在しないのではないかという気がする。(ソフィー)

英雄になるためにどんな特徴が必要ですか。実は私は戦に反対しますから、戦争で死んだ人は本当に英雄かどうかよく分かりません。戦争に行く人のほとんどは本当に行きたくないんだと思います。そして戦争に死んだ人のほとんどは英雄にならないんです。英雄はたぶん、一人で何か広大なものをする人だと思います。これをしないと他の人が死んでしまったり、これをやらないと敵がたおせないなどの理由が一番おおいだんだと思います。英雄はたぶん、自分の命にかけても他人のために、自分の国のために動かす人たちだから、普通には人が英雄になれないんです。そんな勇敢なことをする人は死なないでも英雄だと思います。私の意見では本当のヒーローはかっとうや問題があっても暴力に訴えない人です。これはまだムリそうですが、せんそうは存在しない世界で、たぶん、英雄がない事も大丈夫だと思います。(エステル)

英雄と言えば色んなタイプあるが、まず「英雄」というと最初に頭に浮かんでくるのが中世の騎士だ。勇気だといえば、命をかける。命をかけると言えば戦争。近代戦争にも勇気いっぱいで戦った兵士がいたんだけど、伝説になったのはやっぱり直撃で死んだか、ほとんど死んだ兵士だ。例えば大日本帝国の時代は「肉弾三勇士」という伝説があって、それは3人の兵士が大きい爆弾を敵の戦線に直接に持って行って、その爆弾を自分の身体と一緒に爆発したという話である。彼らの記念に歌が作られて、像が立てられて、肉弾お土産とか名物とかが売られた。つまりその時代の英雄となったのだ。モダン時代の英雄はいわゆるヒーローは昔のと違うんだ。現代のスーパーヒーローとかはあまり負けてない。英雄というより超人みたいな感じがする。何だか人間は神様みたいな存在、人間の能力を超える人間(超人)に惹かれるようです。死にたくなくて、負けたくなくて、それは現代の人たちにとって究極な夢だ。でもいつも勝てるスーパーヒーローは英雄じゃないと思う。室町時代の侍とかは現代のと違った。かっこつけるためにわざと自殺したりして、ある意味すごかった。その時代は英雄になるのが究極な夢だったかもしれない。しかし腹切りしても、英雄になったわけじゃなかった。英雄になるのはそんなに簡単なことではない。もしかすると英雄になってしまう方が簡単。とりあえず私の意見では英雄と呼ばれる者は根性がある者。他の人のために(1人、100人、全世界)何も関わらずやるだけやるという風に行動していて、それでピンチのときでも成功する者が英雄になれる。命をかけるというのがオーソドックスの方法だけど、死ななくても英雄になれる。とにかく人に英雄に思われたら英雄です。自分で決められることではない。(ジュラ)

英雄として扱われる人物はどの国にもいると思うが、英雄にどのようなことが要求されるかは必ずしも同じではない。戦争で亡くなった人を英雄と呼ぶことがよくあるが、私の意見では、ただ死ぬことでは英雄になれないであろう。英雄は抜群で優れている人でなければならないから、英雄の特徴は普通の人なら期待できないことを果すということである。たとえば、自分のことだけ考えれば死を免れることができるのに、他の人や国のために自分の命を危険にさらす人がそうである。ポイントの一つは、必ず何かいい目的が必要だ。そのほかに、その人はそうされていたわけではなく、自らの意志でこの道を選んだということも大切であろう。このような人こそ英雄だと思う。(エリカ)
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理想の語学試験とはどのようなものでしょうか

改まった形の日本語能力試験が近づくこの時期の興味深い質問の一つは「理想の能力試験はどんな感じだろうか」という質問かもしれない。先生の立場から見ると理想の試験はやはり簡単に直せるもので、受験生の立場から見ると簡単に受けるものだろう。しかし、実力が分かるために最も役に立つ試験はどうだろうか。改まった形でも現在の日本語能力試験は大変受動的に違いない。文字や文法の知識、読解力・聴解力を分かるためにとてもいい制度だが、もっと能動的にした方がいいという意見も最近増えてきているそうである。新しいアイデアは幅広くて、能動的な部分として作文や口答試験がその例である。ハンガリー人としてもう一つの能力試験に関する問題を述べるべき。それは、現在の制度の証書はハンガリーでは認められていないということである。大学の入学にも卒業にも就職にも使えなくて、自分の能力の挑戦の意味しか持たない。けれども、人生の中で挑戦が必要ということも事実だろう。(クリスティナ)

もともとの話題を避けて、少しつながるところについて書きたいと思う。なぜなら、理想的な試験は存在しないからである。ハイゼンベルクの顕微鏡のように、人間が行なった試験が本当の知識程度を量れず、達成度しか量れない。従って、「試験」と「理想」という概念は別の世界に付属することである。それより、知識程度を量る必要がなければよかったであろう。知的社会主義が得られれば、理想的な状態が得られると私は考える。アシモフの『ファウンデーションと地球』に紹介されたソラリアはそういう世界である。その惑星に生きている人間は、頭脳に有機的機械が入っている。この機械はもともとエネルギーを操作する機能があると書いてあるが、記憶部にもなる可能性があると私は思う。この 理想郷には現在の社会階層が無くなり、人々は完全な平等で存在する。試験とは人の位置を定めることなので、この状況で不必要になる。しかし、理想郷なので、こんな状態は目指せるが、手に入れることができない。不完全の世界を不完全の手段で守り、更正していくしかないようである。(ヤーノシュ)

私は今まで日本語と英語の能力試験しか受けたことないので、能力試験に関しての経験は少ないと思いますが、よくわかったことは能力を色々な方法でチェックした方が両側にとって一番いいということです。例えば、会話の能力、作文、語彙、読解、文法、(日本と中国の場合はもちろん漢字も)の問題は多ければ多いほどいいと思います。この面で日本語の能力試験は少し良くないと思います。日本語の能力試験に口頭試験が入ってないからかどうかわかりませんが、日本語の教育の短所は必ず会話だと思います。能力試験の1級を合格できる人の中には日本の方とは話す勇気がない人が沢山いると思います。日本語の能力試験に会話もあれば、日本語を外国語として勉強している人達の口頭能力のレベルも上がるかもしれません。試験の時に受験者はとても緊張しているので、試験管はどんな人なのかとても大事だと思います。嫌な人だと、受験者が緊張してて、実際の能力を見せられないのが当たり前なんですが、口頭試験の際は話している相手からいい影響を受け取る可能性もよくあると思います。よく知っているのに、試験の時は間違ってしまう基本的な文法とか言葉などよくありますが、試験の雰囲気はできるだけ試験みたいではなくて、例えば口頭試験の場合はただの会話みたいな雰囲気にしてもらうと、受験者がとても助かると思います。(シャーラ)

私は学生なので簡単な試験が一番よいと言います。もちろんコレはダメですね。今のJLPTはいいと思います。作文と口頭試問はありませんが文法と、聴解と、読解があります。日本語に対してコレは一番大事だと思います。でも多分作文はいいアイディアになります。だって、文法と語彙を人は作文でもっと簡単に使うことが出来ると思うからです。もちろん作文の場合、もっと考えるのは重要ですそして少し難しいかもしれません。でも言語は言葉と文法と漢字のみではないと思うので語の感じも分かることが必要です。ほかの人にとって口頭試問は重要と言います。でも多分他のレベルで。私の意見では口頭試問は二級と一級のレベルのときは多分よいです。テストは多分もっと簡単になれるかもしれません。たくさんの人は書くテストのほうがスピーチより上手です。ハンガリーで日本語を話す練習はたくさんの人は出来ないです。日本人を知っている友だちはいないから、それで日本のテープや本で勉強するしかありません。でも、もちろん、インターネットを使えばたくさんの勉強にとって便利なことが見つかると思います。(ジュジャンナ)

現代人は若い頃から一生の間に何度も試験を受けないといけない。入学試験、中間試験、卒業試験、運転免許の試験、また人によって例えば医師試験、弁護士試験、いろいろ専門職業の試験などで自分の知識と能力を証明する必要が出てくる。そういう精神的につらい時はしょうがなくて、時には試験を直視して受験するしかない。まして外国語試験も最近進学の希望を持っている人にとって受けるべきものとなった。しかし、外国語試験はいろいろな種類と方法がある。基本的に殆どの試験は筆記試験と口述試験に分かれているが、試験のあり方は試験によって多少違う。日本語能力試験のような筆記試験のみのテストは私の知っている限りではハンガリー国内の試験に照らし合わせると珍しいあり方だと思う。話があまり上手ではない受験者にとって口述試験のない日本語能力試験は他の試験よりある程度合格しやすいかもしれないが、平等を大切にするとそのあり方は一番理想だと思う。それで、世界のどこでも受験者が同じように扱われている。えこひいきの問題がないし、皆さんの能力を現実的に測定することができる。(ソフィー)

先週の授業で日本学科の皆様も関心を持っているはずのテーマについて対話を行った。言語能力がどのように計れるかは決して簡単な問題ではない。私の意見では今の日本語能力試験は受験者の実力が反映できない。なぜなら、聴解や読解の問題しかないので、いわゆる消極的な能力だけが使われるからである。一方、話したり書く必要は全くないので、漢字を一つも書けない人も、一言も言えない人も合格する可能性がある。そのうえ、ラッキーであれば、正解が分からなくても合格できるであろう。それに対してハンガリーの言語能力試験には翻訳や作文も含まれているし、口頭試験も含まれているので、受験者の実際の能力が更によく分かると思う。ただ、点数の付け方や試験管の公平さが問題になるであろう。なぜかというと、翻訳の正しさや受験者の発音などを主観的に判断することはむずかしいからである。そのため、理想的な方法は何か分からないが、受験者の能力を様々な側面から計ってみる試験が必要だと思う。(エリカ)

現在の日本語能力試験のことですが、基本的には詰め込み勉強でいける形ですね。合格希望者は適量の時間を詰め込み勉強で過ごしたら、だれでも合格できる試験です。レベルを上げるために300時間くらい日本語の勉強が必要とされています。日本にいても、行ったことなくても、大体同じ努力で合格が得られます。それは一方平等な感じをするが、一方現在の能力試験では「アクティブな能力」は必要とされてないのがそんなにいいことではないと思います。作文を書く事、喋る事などができなくても、合格は可能ですから。自分で文章一つも書けず、文字も一個も書けず、日本語ができるという資格がもらえるのがいいことだろうか。「能力」と名付けた試験だが、能力なんか全く関係ないじゃないですか。「努力試験」と呼んだ方が適当だろう。私にとって理想の試験では、「何ができない」というより、「何ができる」というのが審査する法が望ましい。いわゆる本当の能力試験。喋るのが上手、書くのが上手、コミュニケーションが上手い、パッシーヴな知識が深いなど、いろんなタイプの人がいる。個々に能力が異なってるから、皆から同じ能力を求めるのが古めかしい考え方です。個人的には、アートが好きだから、個性を出せる試験の方が喜ばしい。それでも日本語能力試験はどんな形がいいか、それは日本人が定めた方がいいと思います。日本の社会に受け入られる者はこの社会の「標準知識」を習得しないといけない。それは日本語を勉強してる人を標準化するためです。日本の社会は「標準」というのを大事にする社会だから、いまの能力試験はいまの日本においては適当かもしれない。(やはりアクティヴな能力は望ましくない 笑)それに対して、私が想像している試験の訂正法は個人によって異なってるから、複雑というよりは手間がかかりそうな制度です。あまり便利ではないかもしれないが、人間性を中心にしてて、生徒の能力を充実させるシステムです。(ジュラ)

JLPTは五つのレベルに分けている日本語の能力試験である。たくさんの他の能力試験と比べて口頭試験と作文がない。JLPTが五つのレベルに分けてきたのは今年からである。知り合いによるとこれはいいことだと聞いた。なぜなら今まで三級と二級とのレベルの違いが大きすぎると思ったからだ。少し考えた後私も知り合いが正しいかもしれないと思い始めた。三級と二級の間に新しいレベルを作るのはやはりいいイデアだと思う。この能力試験では四つの答えの中から一つの正しいものを選ぶことだけだから、書くことは必要ではない。私に関する限り、このシステムは、得に口頭と作文がない部分が結構好きだ。それは私は書くとき本当に遅くて、話すときは緊張しすぎるからである。それにしても書くや話す部分がないと手当たり次第に答えを選ぶことによっても合格できる。けれどそれで何を果たせるのだろうか。確かにある場面では外国語を話せることを示す種類が必要だけど、職場とかの面接に行くとき例えこれがあっても、言語を話せない場合は合格できない。こうして私は今このような試験を名前どおりただ自分の能力を計るための試験として見て、大きいな変化が必要ないと思う。(エメシェ)

言語証明書を取る方法の一つは日本語能力試験です。能力試験の一番いいポイントは国際的であるという事です。世界中で皆が同じ試験を受け取るのは本当にいいことだと思います。内容や等を分けるも同じですから、証明書を取る人の知識がある程度に同じです。レベルにとって違いがありますが、この違いが世界中で同じだから、誰かが「私は日本語能力試験のN2レベルに合格しました」というとき、この試験を知っている人があの人の日本語能力がすぐに知っていると思います。日本語能力試験の弱点は「話し」と「作文」の分野がないことです。これ二つはどんな能力試験の一番難しいい部分ですけど、どんなに聴解や読解が出来きても、日本語でうまく話しことが出来ない、上手で書けない人は日本語を本当に使わないと思います。私にとっての理想的な試験はこの二つも含みます。これでもっと難しくなると思いますが、言語を習う時一番大切なことはその語をもっともっと知りたい気持ちが持つ心です。たとえ、数学、科学などに有能な人もある言語に興味があれば、その言語を勉強することが出来ると思います。理想的な試験はこの勉強の鼓舞になれると思います。(エステル)

理想の語学試験というのは、言語の全ての能力を同じく試すべきものだと思う。自分で作文を書くこと、自分であるテーマについて自分の言葉で話すこと、文章や聞いた話を理解すること、漢字を読むことなどは同じように重要であると思う。日本語能力試験の短所は自分で話す問題もないし、作文も書かなくても良いということだ。それにいつも四つから一つ選ぶ問題ばかりなので、もし運がよければ合格できるかもしれない(もちろんその可能性は非常に低い)。なので能力試験よりヴァロシュマヨリ高校の日本語の試験(エーレッチェーギ)の方が良かったと思う。なぜなら上に述べたよう全部の能力を試したからだ。作文も出したし、スピーチもあったので、日本語ができない人は絶対合格できなかった。でももし能力試験でも作文とスピーチがあるようになったら、きっと結果を知るまでは、時間がもっとかかるはずだ。そして日本語はヨーロッパで(例えば英語に比べると)少し珍しくて、日本人の先生もそんなにいないから一人ずつスピーチをやるのは無理かもしれない。(アルネ)

先週の対話テーマは私達大学生が今まで体験してきた様々な試験制度を考慮して発想できる理想の試験はどういうものかということでした。発表者は中国学科が専門だったダニさんで、卒業論文のなかっでも中国の試験制度、あるいは日本の試験制度を取り上げた方です。特に注目に値する点は日本能力試験の口頭部分がない特徴でした。相手のヤーノシュさんがすぐ言い出した興味深い意見は試験たるものはない方がいいというものでした。やはり試験という場面は緊張が多すぎて、冷静に振舞ったり、考えたりするのが非常に難しいです。こうした状態で人の七期や能力などは本当に客観的に計れるのだろうかということも疑問になるでしょう。ヤーノシュさんのいうことを聞いて、こういう場面が苦手な人もいるに違いないことがわかりました。彼にとって、はやはり試験の状況、その実行の選択、工夫が大事になっているでしょう。試験が怖くて、いやで、どきどきして倒れそうな人達を助けるためにはどういうことができるか、少し見てみます。すぐに眼に浮ぶのは先生や試験を行う人の態度です。細かいことですが、先生の笑顔や優しくて好奇心がある態度などによって試験が苦手な人でも少し落ち着くでしょう。試験官の先生は学生が話しているは間無口でも話を聞いたあとは相槌ぐらいはしてあげましょう。無口のまま「

私にはあなたの言っている言葉は関係なくてあなたの言語能力だけを判断しているのだ」という雰囲気を立てるより少しだけ先生も意見や立場を言葉にして、相手をしてあげるような形になったら両方も嬉しいでしょう。上記に見える面白いことはヤーノシュさんの気持ちを暖めるための努力を述べていこうとしながら、口答試験の場面でしか出来ないアイデアを書いてしまいました。つまり口答試験は言語能力のの実質、言葉のやり取りを計れる方法であること意外に試験の場面を改善するためにも不可欠なことです。平気ですよ、ヤーノシュさん。この作文を世界中の先生方がよんでくれて、もうすぐ試験改革が続くと希望します。これから少しだけ我慢してください。(レベンテ)

女性の言葉遣いについて

女の子は今まで男性しか使わない言葉を使い始めているという話題は特に今の若い世代、10代と20代の若い女性の場合は深刻な問題になっているが、その主な理由としては、男女平等と近代社会における性役割の変遷があると言われている。しかし最近、一番影響を与えているのはメディアだと思われている。確かに、毎日いろんなチャンネルで放送されているアメリカと西ヨーロッパ製の映画やシリーズ、またそれを基にして作られたハンガリー製の番組はある程度若者に悪影響を与えるに違いない。10代の若い人はまだ完全に成長した人格を持ってないため、テレビをみたら洗脳されるようになることは精神医学者によると大変大きな問題となっている。そしてそのメディアは人の話し方にも大きな影響を及ぼしている。では、メディアをコントロールできない一般の私たちは何をすればいいのか。まず一番責任を持っているのは親だと思う。子供をちゃんと躾けて、子供が成長した人になるまでに育てないといけない義務があるだろう。なぜなら育ちが良い人は何の悪影響が起こっていても自分の行儀、また話し方に悪い影響が与えられないからだ。(ソフィー)


日本語の特徴の一つは女性と男性が使う言語の違いである。女性は男より更に丁寧に話さなければならないだけではなく、女性が使ってははいけないことばも数多くある。ハンガリーといえば、それほどおおきな違いはないと思うが、女性が悪口を言ったり大きい声で喧嘩をしたりするのはどこでも女らしくないと思われるのではないであろうか。女性は優しく温和だと期待されるからであろう。そうではあるが、今は特に若い女性の間でも悪口が非常に流行っているようである。最近映画などで強い女性のキャラクターがよく出てくるし、マスコミで悪口が使われるのも珍しくないので、テレビの影響もあり、悪口や強い言葉遣いがかっこよくおもわれているのかもしれない。(エリカ)

ハンガリーでは男性と女性の会話のスタイルはあまり違ってないと思う。言葉的な違いはないと思うけど、やっぱり女性には使わない方がいい言葉がある。悪口雑言を使うのは男性にも悪いことだけど、女性がこんな言葉を使ってはいけない。たぶん女性はテレビを見て、これは流行していると思うかもしれない。ハンガリーでは昔から人が女性はきれいな存在とだと思ったからきれいな話し方が似合うのだろう。そしてこのテーマに話したとき男性達は「最近女性が使うあまったるい話し方は男性は絶対使わない。じょうだんでも使わない。」と言った。もう一つの違いは心理的な違いだ。シャーリの言ったとおり、日本では男性は情報中心、女性は心理的なつながりが中心だ。これはハンガリーでもそうだと思う。でも、やっぱり違いはこれだけだと思う。このテーマが私はあまり知らないから、ネットで探してみたが、これについての記事があまり見つからなかった。一つの記事には「性差別の語学的な研究はハンガリーではまだ新しいことだ。」と書いてあり、性別に敏感な言葉もあるしそうでない言葉もあると書いてあった。ハンガリー語は性別に敏感がない言葉だ。だから男性と女性の会話に違いはあまりないんだと思う。(エステル)

日本語のような「女性言葉」はハンガリー語でも存在しているのだろうかと最近同級生に聞かれた。日本語の場合、男性の言葉と女性の言葉ははっきり区別できるがん、男性と女性の違いは精神的なものであると考えると他の言語でもそのような違いがあるに違いないだろう。日本語では言葉遣いをはじめ、感動詞や人代名詞などを基準として、例え小説であってもその文を言ったのは男性か女性か一目で分かる。ハンガリー語の場合は小説で読んだだけで必ずしもすぐ男女を区別できるわけではないが、分かる場合も確かにある。たとえ「女性言葉」と呼ばれていなくても、「女性らしい言い方」が存在しているだろう。小さい子供をはじめ、女の子は両親に言われている文句の一つは「何その言い方、女の子のくせに?」や「女の子らしくしゃべりなさい!」などである。ハンガリー語では「女性言葉」は文法的に定められていなくても、規則を使って描かれなくても、人々の意識には間違いなく存在しているようである。(クリスティナ)

そうですね。シャーリさんのテーマは女と男の会話のスタイルの違いでした。日本でたくさんのスピーチのパターンがあります。ハンガリーで男女の会話のスタイルで違いについては難しい問題だと思います。一目見てあまり大きな相違はないと思います。女性と男性は多分同じ言葉を使いますし。でも女性は最近キュートな言葉も使います。例えばハンガリーの女性は何が可愛い場合は「Cuki」といいます。この言葉は男性があまり使いません、「いい」とか「Ok」と言います。でも最近は男性だけじゃなくて女性も悪態をつきますし、悪態をつくときとき男性と同じように女性も悪い言葉を言います。多分メディアのせいでみんなのスピーチパターンが近いもにになります。特に女性が男っぽく話すことが目立ちます。最近の女子はもっと強いアピールを見せたいからカッコいい言葉を使います。でもこのかっこいい言葉は実は汚い言葉ですから、結果は「強さ」ではなくて「乱暴」のイメージがつきます。でも女性たちはこれは気付いていない。日本ほどではありませんが、ハンガリーでも女性と男性の会話は多分スタイルが少し違います。そしてテーマも大きく異なります。たとえば女性たちはお互いに話すときはもっと女らしいテーマについて話します、化粧とか、男性とか、服とかについてです。そして男性もお互いに男性が気になるテーマについて話します。(ジュジャンナ)


日本と違って、ハンガリーでは特に男性が使ってる言葉と女性が使っている言葉は分けてないと思うが、やっぱり男性と女性の話し方はちょっと違うといえる。例えば、男の人のほうがきたない言葉を使っている。きたない言葉は男性がよく日常会話で使っていて、女性はこんなのはほとんど使わないと思う。もし同じきたない言葉が女性によって使われたら、男性よりもっと乱暴な気がする。時々男の人は自分できたない言葉を使っているが、もし誰かの女の人が同じ言葉を使うと気になる。一方女性が時々言葉を短くして、かわいい言い方に変えることがある。特に若い女性がそんなのをよく使っている。例えば「可愛い」の「aranyos」の言葉を「edi」それとも「cuki」にする。男性が「cuki」を使ったら、少し変な気がして、全然男らしくない。そして女性は男性に比べれば、強い意見はあまり言わないで、男性の方が直接意見や評価を言う。でもそれがあっても、まだハンガリー語は言葉遣いのことで日本語に比べれば、そんなに違いはないと思う。(アルネ)

なぜ男はそんな言い方をし 、なぜ女はあんな話し方をするのか。男女の会話スタイルとは、様々な違いがある。精神的にも、それから言語学的にも違っている部分について少し考えてみよう。日本であれ、ハンガリーであれ、会話の男女差を皆きっと経験したことがある。日本だと、最近、男性の話しスタイルがわってきている。若い男性の考え方も、ミタメもなんだか女っぽくなってきたり、普段女性に使われている語尾の助詞も男性に多く使われたりして、話し方さえも益々女っぽく感じられているのではないかと思う。傾向が出始めたきっかけは何だろう。マスメディアの影響が強いと考えてもよい。ハンガリーの場合は、日本のような傾向はまだ出始めないと思うが、女の子だけ使われているかわいい言葉がたくさんあるらしい。面白いことは、それが男性に使われたら、きっとゲイと見なされてしまうことだ。日本人の男性が女性の語尾助詞を使おうとしても、別にそこまでは見なされないと思うので、日本はそこまで厳しくないと思う。ハンガリー人の性別役割意識が現在の若い日本人より強いので、話し方もきちんとハッキリにしているのではないか。とはいえ、以上のことは国によって違うので、パターンなどはないと思っている。(マリアン)

ハンガリー語では男女の会話のスタイルに違いがほとんどない。男女は別の物に興味がある為一番大きい違いはたぶん話しのテーマだと思う。男はスポーツ、機械や女についてよく話すにに対し女はファッションや家族についてよく話す。その上女は長く自分の感情について話すが、おとこはもっと議論的に話す。次はちょっと言葉遣いについて話したいと思う。女として気付くことは女のほうが汚い言葉を使うことが少ないということだ。汚い言葉を使うと男より女のほうが不自然に見える。女の子は母に「女の子はそんなはしたない言葉を使ってはいけないでしょう。」と叱れることが多いし、おそらく社会も女はきれい言葉を使うべきだと思っているだろう。女が「ari=aranyos」(かわいい)とか「ubisali=uborka salata」(キュウリサラダ)のような可愛らしい言葉を使うのは男より多い。その他、女が間接的言葉、つまり「と思う」とか「ってどう」とか使うことも多い。(エメシェ)

確かに最近の女性の口が汚くなった。男の言葉を使ってるけど、それはなぜだろうか。男女平等の思想の普及が原因とされているけど、男と女が平等じゃなくて、同じになったとは考えられないか。ハンガリー語は女の子しか使わない可愛らしい言葉の他には、男女言葉で異なってるところは少ないようだ。日本でも男と女が話す言葉が近くなっているようだが、私がびっくりしたのが最近の日本人の男性(いわゆる草食系男性)が「美味しいわ」とか「かわいいもん」とかを言うようになったということだ。それで本当にいいのかと思ってしまう。本当は言葉が変わってるよりも社会が変わってるというのが正しいのかもしれない。「美味しいわ」を言う男は言葉遣いだけじゃなくて、態度も女らしいと気づいた。もしもハンガリーが昔の日本と同じように男と女が不平等だったら、ハンガリー語も男女の言葉遣いが大いに異なってるはずだ。ただ、個人的には私は男と女の言葉遣いで差があった方がいいのではないかと思う。ハンガリーはこれ以上男女が平等化したらもしかしたらオカマの人が増えてしまうかもしれない。(ジュラ)

今週の最初の対話はハンガリーで男性と女性が言葉を使い分けるかどうかということについてでした。シャーラさんは日本語の敬語を研究しているときに、こういう面白いテーマを知ったそうで、私が今まで深く考えたことがないハンガリー語の特徴について考えることが出来ました。現代のハンガリー語でも男性と女性の言葉を見るとやはりお互いの言葉が近づいている傾向が見えます。この点でハンガリー語と日本語が同じようです。しかし普遍的にこうした結論ができても具体的な場面を見ると男性と女性言葉の使い分けは欠かせないと分かりました。女性同士なら男性の私でさえ驚くほどの男っぽい話し方を使うことがよくあります。全く女性らしくないと思ってしまうようなこともあります。しかし男性が女性と接する際にはこれとは根本的に違う印象を残します。例えば男性に対して社会的な地位を占めなければいけない場合は女性が上品で親切ななハンガリー語を使うことが多いです。例えばクラスの中の同級生や友達の女の子はよくこういう言葉使いをします。こうした言葉の使い分けで自分が女性だと強調することが出来ます。ではその逆はどうでしょう。自分が男性に対してそれと同じ地位を占めるというメッセージを伝えたい場合は女性が男性言葉を使うことがあるのでしょうか。よくあります。例えば打ち合わせの場合に、女性は、脆くて、優しい存在ではなく、強くて、巻けず嫌い性格を示したいという女性をよく見かけます。こういう女性と話しながら頭に浮かぶのはやはり油断せず話しの内容に集中したり、それに対して自分の立場を守ったりするのが普通で、相手の性別は気にしないようにします。また、ハンガリーでも、男女言葉の使い分けが現代でも残っているという点で私たちの意見は一致しました。しかしこの言葉使いの特徴はその場面的な意味があります。場面によって、男女言葉は色々な役割を果たします。男女言葉を使いこなせば自分がどの印象を与えるかがわかってきます。この話題レポートをまとめることで、シャーラさんの役に立つことができたように祈っています。シャーラさん今後も面白いテーマを頑張ってください!(レベンテ)

確かに男女の役割が社会の厳格な規則によって定められる。歴史を見ると、英雄の男性に伴う繊細の女性を描いた絵が多数ある。私はさっき見た「レッドクリフ」という映画の一つの場面で、英雄の主人公が、婦人が「孫子」を引用するときにほんの少しの怒りが入った反応を思い出す。彼女はなんで戦争に関することに触れられてしまったのかと考えたはずである。婦人は、茶道の天才で将来「平安」という子供を生む人物として平和と文化の象徴であった。夫は、この平和を得る、この文化を守るため努力するものとして描写された。映画に紹介された状態は、長い歴史的な過程の結果として現れた。ある社会的習慣が固まったら、後は存続する世代の見よう見まねとなってしまう。見よう見まねといえば、世界の異なる国民の声調もおもしろい。テレビでアメリカの女性の話を聞くと、とても特別な声である。アメリカ人の女性ならみんな同じだが、他の国の女の人と違う声調を出す。たぶん子供のときに女の子が母親を「聞こう聞きまね」と観察し、自分の声を自然的に模範に合わせるかもしれない。しかし、アメリカ人の女性の特殊の声調はハンガリー人とポーランド人と日本人の女性が真似できないはずだ。日本ではこの現象が良く見える。女性が高くて繊細の声調で話す。男性は速く後舌母音の多いうなり声で話す。その上、日本のような島国根性の社会には外の影響も内の有様を薄めない。それぞれの世代が自分の言語状態を引き継ぎ、結局男女が自分の特別ぐらいな言葉が出来上がる状態も可能になる。この現象は将来消えてしまうとは言いたくないが、言語は永遠に変化し続けるものであるから、分離は必ず合一し、合一は必ず分離する。(ヤーノシュ)


男の人は情報の伝えかたに、女の人は情報そのものにこだわる。それは経験した感情を伝える際にも現れる。今の時代には男っぽい女もいれば、娘心の男もいて、かれらの話しかたは男女の混ぜ合わせのようにも見えるが、これが三番目の話しかたなのかとうい疑問もある。例えばエモバンドの歌詞の内容はどちらのカテゴリーに入れられるのだろうか。なお、ハンガリー語を調べれば、男女の言葉使いに違いがあることがわかる。キュート、かわいい意味をもつ言葉(ツキ、アリ、エーディ)はだいたい女性しか使わない。感情を表す言葉も女性のj方がよく使う。一方、下品な言いかたと論理的言いかたの言葉使いも見られる。ある人がある言葉を何遍も使うなら、その人にとってその言葉の意味範囲は他の人よりもっと広いかもしれません。(ダニエル)

マンガとコミックスの違い、マンガの将来

日本では将来、遅かれ早かれ漫画はディジタルになると思う。全部ではないにしても、多くの漫画のディジタル版が発売されることになる可能性が高い。ちなみに、もう「電紙」という電子ペーパーが発明され、現在は新聞や雑誌、いろいろ文学作品までディジタルエディションが購入できるようになっている。その点からディジタル漫画は不可能ではないでしょう。電子ペーパーが便利だし地球に優しくて、経済上の価値も持つ。それはすなわち、電子ペーパーが大流行になったら、まず古紙の扱い、そこまで再利用やリユースなどのために投資したコストが貯まることになる。それに紙リサイクル業における労力もかなり軽減されることができる。一方、日本製の電子ペーパーが世界的発売になると日本経済にとって良い結果をもたらすに相違ない。それは電紙とディジタル世界のいいところだ。しかし裏の面として、例えばディジタル漫画の読者への精神的や感情的な印象はどうなるのか、電子ペーパーの画面を見ながら読むことは読者にこれまでとは何とか違う印象を与えるではないだろうか。これは私が信じている「本は魂を持つ」ことにもつながると思う。本を手に取って、紙の匂いを嗅いで、本の手ざわりを楽しむということは、電子ペーパーでは生み出せない感じである。電子ペーパーはどんなに技術が発達しても、本のような文化的価値を持たない、ただ文字や絵を見せる器具でしかないのではないだろうか。(ソフィー)

私はマンガの世界もコミックスの世界もあまり知らないので、この二つを対照する時には少し困るのであるが、できるだけよく考えてみる。まず最初に、形式的な違いがあるであろう。色使いのほかに日本のマンガに出てくるキャラクターは大きいな目など独特な特徴が数多くある。また、一番大きな違いはテーマの選び方に見られると思う。私の個人的な感想にすぎないかもしれないが、ヨーロッパのコミックスといえば、もちろん大人のファンも数多くいると思うが、子どもや少年の世界のイメージが強いのではないであろうか。それに反して、マンガの対象は子どもから大人まで更に広い幅があるであろう。それに応じて、暴力など子ども向けのコミックスでは現れるはずのないテーマも数多く出てくるし、その表し方もヨーロッパで不慣れに感じられるほど率直ではないであろうか。(エリカ)

漫画の未来は私にとって本当に面白いテーマだ。発表で言ったとおり現代の漫画は「電画」になる可能性がある。これはやっぱり本の未来と同じかもしれない。そのための機器は電子書籍、他の呼称は電子ブック 、Eブック だ。その機器はいい所がたくさんある。たとえば、一台の電子ブックで何冊の本も含む事が出来る。狭い家で住む人に何冊の本があるよりもっと便利だと思う。そして厚い本よりもっと軽量だ。バスや地下鉄の中でハリーポッターやそのような本を持っている人が見るとき「重いだろうな」と思う。家で読んでる時もこんなに重くて大きいな本は動きにくいから、人はずっと同じポーズで座ると体が硬くなる。でも、この電子ブックはあまり重くないし、カバーも邪魔しないし、そんな場合では使いやすいと思う。出版するのも普通の本の出版より簡単だし、あまり高くないし、経済にもよいと思う。ジュジャンナさんは電子漫画をつくるのは漫画家にももっと簡単にいなると言った。ただ、それはたぶんみんなには当てはまらないと思う。パソコンなどをよく使えない漫画家もいるかもしれない。たぶん時間が経つにつれこれも変わる。電子ブックの他のいいポイントは漫画における描き文字が聞こえる音に変わることも出来るということだ。これは声優にも仕事になる。そして電子ブックにすると新聞や雑誌の申し込みも簡単になると思う。たとえ申し込みをするとき「電子ブック」のオプションを選べば、サイトにダウンロードのオプションが使えるようになり。後で電子ブックにアップして雑誌の号を読める。他の方法もたくさんある。たとえAmazonに本や雑誌やマンガを電子ブック買える。でも、あまりよくない所もある。たとえ本より目に悪い。そしてやっぱり私も本当の本が好きだ。本の場合、香りのおかげで。古くなった本の香りが好き人がたくさんいる。そしてパソコンが使えない人も本を選ぶと思う。ただマンガの場合では電子マンガは未来があると思う。簡単だし、たぶん普通より安いし、そしてもっと近代的だから。マンガがただ暇のときリラックスのために読む人に「電画」でもいい。でもオタクには普通のマンガはもっとよいと思う。物を集めるのが好きなタイプな人だから。本の形をしているマンガはもっと現実性のあるものだろう。電子マンガでいいならネットからダウンロードできるから、買うならきっとマンガを買いたいと思う。でも外国人としては一つのいい所がある。注文するとき電子マンガや電子本だとすぐ手に入るということだ。本で出版したマンガや本は自国に着くまで傷付く事もあるし、途中で無くなることもある。でも電子ブックはオタクの為ではない機器だ。本当に便利だから流行になると思う。(エステル)


漫画についての発表で漫画と本、印刷されている物の将来について少し考えました。ジュジャンナさんに教えてもらったように、日本には紙の変わりにもう様々な物が使われています。今はEペーパーみたいな最近発明されたばっかり物の値段は高いから、あまり広がっていないと思いますが、将来は安くなって、一般人も使える時代になると印刷メディアはなくなる恐れが高いです。私の考えでは、ラジオ、テレビとパソコンなど、20・21世紀の電子機械と、それと共に電子メディアが現れた時も同じように印刷メディアがなくなると恐れがあったと思います。現在のメディアの状態を見ると印刷メディアはまだ存在しているし、今はテレビとパソコンの世の中でも本と漫画はまだとても人気があります。将来でEペーパのような電子機械がいくつかあっても、印刷した本と漫画は将来があると思います。なぜかというと、パソコンを読むことのために使うのが好きではない人の方が多いし、本と漫画などを手に入れるのが機械で読むことと全然違います。日本人みたいにいつもとても忙しい国民だと、出勤する時しか本と漫画を読めない人達の場合はEペーパーは人気になりそうですが、印刷した漫画がなくなるのが可能性は少ないと思います。(シャーラ)


日本の漫画は最近世界中で大人気であるに違いない。それとともに、デジタル化の時代になり、インターネットのおかげで、どんな情報でも手に入れられるようになった。その二つの傾向はお互いに影響を与え、デジタル出版の漫画市場を設けられるのだろうか。その質問に答える前、ちょっとデジタル出版ということは何だろうかとも考えるべきかもしれない。最近、世界中に紙の使用が多すぎるのが環境問題の一番深刻な一部とも言われている。それに対して、紙の使用を減らそうとするデジタル出版が発達し、電子書籍のための機器も発明されたが、それで本当に紙ごみを減らせるのだろか。それに、電源の利用もきっと増えるので、本当に環境問題の解決として役に立つのだろうか。その上に、愛読者は機器を使って読むことが好きになれるのだろうか。今までずっと本などが好きだった人々の気持ちは簡単に変われないだろう。その本は小説であっても、漫画であっても同様かもしれない。デジタル漫画市場が発達するかどうかやはりデジタル出版の依存である。(クリスティナ)

ジュジャさんはマンガの未来それからマンガと洋風コミックスの違いについて発表した。元々日本で制作されたものであり、現在世界中にマンガを読んでいる人は大勢いると考えられている。なぜかというと、洋風コミックスと共にマンガの絵も上手く描かれているし、慣例的な洋風コミックスの英雄に比べてマンガの主人公は精神的に全く違うので、読んでいる人の好き嫌い・好みによってどちらも人気になるだろうからである。では、マンガの雑誌・単行本は将来も読めるのだろう?ディジタル世界になると、今本の状態で存在しているマンガが消えてしまう可能性があるかもしれず、その場合電子媒体のマンガにかわるということになる。しかし、これも今のマンガというものと同じものだろうか。私の意見では、先ず、マンガはこれから先の未来いつまでも存在し続けると思う。将来も紙に印刷されたマンガというものは消えないと思う。もしかすると、本屋でディジタルのマンガが発売され始めかもしれないが、図書館とか、ブックオフなどの売り場では何年がたっても、本としての存在が間違いなく残ると思う。若い子がたとえいくらディジタル製品にハマったとしても、・本・を読むときに特別な雰囲気があり、それはとても大切な感じだと思うので、こういう感じが好きな人たちは漫画の単行本か雑誌も必ず買うと考えてもよいだろう。(マリアン)

「ね、漫画のことはどう思う。」
「漫画か。。。日本のコミックスで本の最後のページから読む。後、キャラクターの目が大きい。」
漫画について聞いたら、おそらく返事はこんな感じになるだろう。確かに日本の漫画を最初に見るとき一番目立っている違いは読み方の違いである。ヨーロッパ人やアメリカ人はコミックを左から右に読むが、日本人は漫画を右から左に読む。そのため外国で出版された漫画の裏に読み方の説明がある。漫画とコミックスの絵の違いというとコミックスのほうが絵がリアリスティックだということだ。漫画で色々なスタイルがあるが、キャラクターの多くは目が大きくて、髪の色は何でもいい。コミックのほうがコマとテキストが多い。ほとん
どの漫画は白黒でコミックスは色絵だ。内容を見るとコミックスのほうが総和的で、漫画の中ではまともなストーリーがあるほうが多い。漫画のストリーはコミックスより変化に富んでいる。漫画にはカテゴリーと対象読者のバリエーションも多い。(エメシェ)

美術やエンターテイメントの世界では、何が流行ってるかは内容的と技術的な問題だけではない。漫画はアートというよりも商売かもしれない。いや、商売に決まってるだろう。金は大事だということで、商売の需要に応じて漫画が変化する。現代のハイテク化した日本では、なぜデジタル本より紙の本が売れるか、確かに不思議だ。私の意見ではこれは技術的な問題ではなくて、商売の問題だ。漫画を作るのが簡単に見えるけど、ペンと紙だけあればできるようだが、本当は漫画本一巻を出すには10-15人の協力が必要だ。漫画はいま大商売で、漫画につながる産業がある。漫画の産業はもう固まっていて、技術があっても息なりデジタルに転じるわけにはいかない。10-15人の仕事がかかってるからだ。漫画をデジタル化するにはまず漫画の産業の変更が必要だ。それにはかなり時間がかかる。カスタマーは売られてるものしか買えないから、もしもデジタル漫画がもっと多く売られたら、漫画のファンがデジタルの方も購入するはず。それは問題ない。Eペーパーみたいな本とか漫画本などは流行りそうだが、デジタル漫画が大人になるまでは10-20年もかかるかもしれない。漫画が変わっていく、そして漫画の新しい姿が産まれる。新しい姿はどのようになるか、いま予見してみるしかないけど、伝統的な漫画本の繁盛がいつまでも続くことはない。未来のマンガは携帯媒体になるのかEペーパーになるのか、今から楽しみにしてる。(ジュラ)


私は漫画のことをよく知らない。だから自分のいくつかの単なる見聞きしか書けない。最初に、西洋のコミックスと日本の漫画の機能は違うかもしれない。西洋と東方は両方画像文化である、異なる映像文化がある。例えば漢字とローマ字の使用からもこれが言える。映像性を持つ漢字と逆に、ローマ字はこんな映像性がないため読むには違う脳活動が起こる。だから、漫画の中の漢字テキストとコミックスの中のローマ字では画像に対しする分離の度合いが違う。主に仮名を使用する漫画の場合は、画像と文字との相違がないかもしれない。漫画の絵の全体に見えるどぎつい文字もこれを証明している。コミックスではこんな文字は珍しい。パソコンによって想像された人物を使用する傾向も画像文化の違いを指す。漫画での人物がみな特殊の個人を描写する必要はない。その代わりに、タイプが分けられるようになっている。西洋のコミックスは既成概念に基づく人物が描かれるが、すべての者が特殊のある目鼻立ちなどをしている。西洋の読者と日本の読者では、描写する人物に対しての要求がやはり違うようだ。この要求の有様があるからこそ、漫画の人物の機能も日本の特殊の画像文化に根付いたものだと言えるだろう。(ヤーノシュ)

長い伝統をもつ日本マンガはいくつかの変化を臨んでいます。いまの木材消費が減るため、だんだんディジタルになって、読めると思います。それと同時にいまも発売中の「携帯本」のような機械のかずが増えて、ダウンロードしたらどこでもマンガなどが読めます。あるいはマンガにある規制、たとえば白黒書き方のようなパターンが弛みます。ただ、こうなったとしても、わたしがかんじる傾向では、マンガのストーリーの水準がざんねんながら落ちて、マンガ著者はマンガが普通のしごとのように考えて、つまらないものばっかり創造するようになると思います。21世紀にもおこる世界観の変更で、ものごとをじょうずに改善する日本人はどうやってマンガのジャンルにこれを伝えるのか。どう変わっていくのか21世紀の「新漫画」をきょうみをもって、たのしみにしています。(ダニエル)

人間の研究や発見はすべて人の人生をもっと楽に楽しくするためのものでした。タイヤから携帯に至るまでその発見は人間の生活をもっと簡単で、安く、早くするために作られました。この日々合理的になっている世界で漫画の将来はどうなるのでしょうか? 1879年にエジソンが初めて電球をつくりました。そして1920年にアメリカの大きな町の大部分は公光源として電球を使うようになりました。ろうそくやガスランプと比べて電球はもっとべんりでした。そのあとどんどん自家用になりました。これを見ると本、そして漫画もこれと同じ将来が待っているような気がします。もっと安く、ユーザフレンドリーの発明品を見付けて、今後は紙の作品の数は段々減っていくのは間違いないと思う。たしかに今の世代では、とくに気を休めたいとき、デジタルのテキストより伝統的な本や漫画を選びます。紙の感触、繰るときの音と、子供のころから、何時間もたのしく漫画を読んでいる思い出に人工な感じをもっているデジタルテキストは勝てないです。でも雑記帳よりパソコンにノートを取る学生が多くて、手紙の代わりにEメイルを使う場合が増えています。図書館に行って、かりるよりインターネットでさがしてダウンロードするのが易しいです。地球環境を守ろうと考えているとも木を棒にするかわりにデジタルをつかうのはいいです。最近のモニターは目に悪いと言われてるけど、それは本を読む場合にも言えるでしょう。漫画家から読者に作品がもっと早く届きますし、デジタルは汚損しないし、あまり貯蔵場所をとらないし、文の中で検索するのも簡単です。いちどなれたら、紙の本より便利です。デジタルより伝統的の漫画を好んでいる人の一つの主張はパソコンをつかって漫画を書くのは本当の漫画ではないというものです。しかし、私はそう思いません。作っている工具が違いますけど、同じです。 つまり、同じことのスタイルの違いだけです。またほかの主張としては、けいたいでよめる漫画は不人気だというものです。日本人はけいたいでよくゲームしてますけど、漫画の読者の数は割と少ないです。この理由は携帯のディスプレーのサイズでは文字を読んで画を楽しめることは非常に難しいことがあげられます。でももっと大きい規格の漫画本のおおきさのデジタルのバージョンがあればその問題はなくなります。この過程が悪いかいいかわかりませんけど、必然のことです。ただの漫画ではなくて、本ももっと新しいデジタルのテキストに役割をわたしてなかればならない。人間の歴史がそれをよくあらわしています。でも本は完全になくなることはないです。ろうそくと電球の関係みたいに本も将来ではデジタルのテキストと比べてなにか特別な意味を持つようになると思います。日常的にデジタルを使って、特別のときもっと上品な本を楽しむようになると思います。(ヴェロニカ)

もし壁画等の遺跡が消えてしまったら歴史認識は違うものになるか

壁画がきえると四神も人の記憶から消えるかというのは難しいしつもんです。私の意見では遺跡は必要です。遺跡は歴史の証拠なので消えてしまう場合は歴史自身も消えるかもしれないと思います。たとえばハンガリー人はなぜここにいるか、どこから来たのか、考古学者もぜんぜん知りません。なぜなら遺跡がないからです。遺跡がないと私たちの歴史の大きな部分が抜けてしまいます。壁画が消えたら日本の歴史の大きな分を消えてしまうかもしれない。ですから古墳は守るべきです。証拠の必要さには他の理由もあります。現代では悪い人もいますので偽物の遺跡をつくる可能性があると思います。その人の目的は金か、有名さか分からないが、人は何でもつくれます。例えば古い写真も、絵も、簡単に本物に似せることができます。そして偽物のせいで人はうそを信じるかもしれない。だからふるい遺跡は守らなければならないと思います。遺跡がなくなってしまうと、私たちの孫の孫の孫はどうやって私たちの生活を知るでしょう?多分写真はインターネットの上で見つかると思いますが、でも、「これって本当ですか?」と言ってしまうのではないでしょうか。少し悲しい考えですね。(ジュジャ)


古代やその前の目に見える遺跡が世界から消えてしまうとその時代についての知識が残るか?これはたぶん国によって違うかもしれないが、時間が経つにつれ昔のことの記憶が消えてしまうと思う。この消えてしまった遺跡を見た人は確かにいるんだが、あの人達が墓の壁画、洞窟壁画、古代の陶器などをもう一度作ってみても、同じようにならないと思う。この記憶を本にしても、自分で見るのと違う。そして同じテーマについての本でも、本の内容はある程度に違ってくると思う。各人各説ですから。同じことも皆にすこし違うように見える、そして違う意見を持つ。みんな別々から。だから、同じ話は誰かが語ると変わっている。そして時間が経つにつれ昔話のようになってしまう。そしてこの目に見える遺跡が消えることは研究者にも大変だと思う。自分で見る事が出来ないとどうやって研究するのか。もちろん本で読むだけで足りるという人もいるけど。自分の意見や自分の説を作るために直接な経験は重要だと思う。だから皆が昔の遺跡を守るすべきだ。だって、私たちが何所から来たこと、私たちの伝統が、父祖の伝統や文化は本当に大切だから。(エステル)


今週は七十年代に日本と朝鮮との関係を証明する壁画がある死室を発掘されたという話が聞かれた。この新しい出土品はいろいろな影響を及ぼした。一つは、壁画に描かれた四紳の存在の知識が広がり、現在せめて姿が日常知識になってきた状態に至ったということである。もう一つは、歴史学と考古学の世界で日本と朝鮮の「順位」まで含める論争が深めてきたということである。北朝鮮と韓国、そして日本の微妙な国交を慮ると、こういう論争の大変に邪魔な可能性が良く見ることができるはずである。この間、日本の歴史を見直させる考古学的な情報を隠れる天皇死室が関係当局によって厳重に管理し続けるようである。考古学と一般科学の進歩につれて、人間の知らないうちに出来上がったものは見直されていく。これが科学の重要な機能の一つである。例えば、地球が平面だという常識は天文学によって見直され、紅毛の人は月経に孕まれた者だという常識の時代は医学の発達によって終わった。歴史学と考古学が反証するまで、私たちハンガリー人もヨーロッパ各国同様、ハンガリー人がフン族に関係ある民族だと思っていた。現在ハンガリー人は自分の特殊性を大事にしている。最近もやっとペテーフィ・シャーンドル(Petőfi Sándor)の死体を発掘されたというニュースがあった。一方、やはりアッティラ(Attila)の死室の発掘のために金をもらいたがっている町もたくさんある。しかし、発掘計画の融資か許可の決定は政府の仕事であろう。つまり、いつも政治的な決定である。中国で始皇帝の墳丘墓はすごく見物される場所だが、死室自体の発掘は始まらない。どうしてであろうか。知らない事は利も損もしないであろう。例えば、ハンガリーの国民の代表的な英雄としたペテーフィについてウイーンから賄賂を受け取り、ハンガリーを裏切ったと証明する物質な実証が現れると、ハンガリー人の国民知識が害させられるであろう。とにかく、伝統的な説話と違う状態を指す証拠はいつも扱いにくい。始皇帝の墳丘墓の場合もこれに近いではないであろうか。そして日本の政府に管理された天皇死室も同じである。政府の仕事とは国民の福祉を守ることであろう。しかし、現状維持も政府の役割の一つではないであろうか。国民知識が害されたら福祉も害されるからである。戦後まで日本人は、日本が神国で、天皇が天照の子孫だという思想が一般であった。その以来の六十年間にこれは国家と国民がみな平等だという思想に変わった。しかし、日本の歴史に朝鮮が文化的や政治的に優勢であったという状態の可能性が出てくると国民に迷惑をかけることになるあろう。こういう情報を穿り返すのため、墓をあばくのは利益な所も不利益なところもあり得ることが分かるのではないだろうか。(ヤーノシュ)


今週マリアンさんが伝えたかったテーマは私にどのぐらい通じたのかわからないですけど、一つの物的なもの、たとえば韓国と日本を繋がる洞窟壁画が壊れるばあい、その壁画をもつ思想が壁画とともに崩れ、人の意識から消えてゆくことについての可能性について話し合った。私の考えでは、これはなにも心配する事ではありません。人は自分達にとって大切、いい影響を与える思想を守ります。更に守ることは無意識の作用です。脳もそのように情報や思考などを「有用」と「無用」みたいなカテゴリーに分けます。この進化的意見のほかにも一つの視点も紹介します。人はとんど自分の時代の為に限って(ピラミッドなどは議論の的になるでしょうが)芸術を創っていますので、芸術はその意識の鏡になり、時代に生きている人にとっていちばん意味があると思います。ですから壁画などの昔の記憶がなくなったら、わたしたちの(今の)思想でその壁画が再建できるとは思えません(ダーニエル)


今週の授業で複雑な問題について談話を行った。問題は壁画のような目に見える証拠がなくなっても昔の人々の思想などがかわかるようがあるかということであった。私の意見では歴史とは非常に難しい問題である。どうしてかというと、目に見える証拠があっても、昔の生活や思想や出来事などについて思われることの多くは単なる推測にすぎないのではないのではと思うからだ。たとえ記録が残ったとしても、それは書いた人の主観的な意見やその時代の政治的な状況に影響を受けたもので、考えないで客観的な事実として受け入れることがあまりできない。歴史の教科書にも時代や国によって違うことが書いてあるのではないであろうか。近頃のことさえ確かめることができない、ましてや昔の事情がわかるようがないとよく感じている。そのため、歴史とは何かも問題の一環であろう。それでも、目に見えるものがあったらいいと思う。なぜなら、人間にビジュアルなものは強い影響を及ぼすからである。しかし、目に見えないものがなくなっても、伝説や文化の中に確かに何か残ると思う。たとえば、ハンガリーのもとの宗教も目に見えるもの(儀式や聖典など)があまり残っていないのに、民話などからその様子がはっきりわからなくてもなんとなく推測できるであろう。(エリカ)


現在存在している壁画のような古代文化を証明する証がなくなったら、昔のことを想像できるだろうかと同級生にこの間質問された。いくら考えても、答えは難しすぎて、多分正しい答えというものはないかもしれない。例えば、今は存在している壁画がなくなっても、それについての書類は数多くある。けれども、将来の学者は現在の学者に書かれた論文を受け入れろのだろうか。時間がかかると、論文は正かどうか、その証はにせものかどうか判断するのは難しいだろう。その時代に本物として受け入れた歴史的な書類をも現代の学者がせものとして見なす場合も少なくない。それに、今まで見つかっていない壁画等の古代の文化についての意見を変える証明がある可能性も否定できないのではないだろうか。古代よりもっと近い歴史についても曖昧な点が多いので、古代の文化、生活、宗教意識などを分かろうとすることは難しい。それでも古代の研究のような興味深くて、素晴らしい研究は他にはないだろう。(クリスティナ)


古代朝鮮と古代日本の文化交流といえば、日本文化の要素のいくつかは、アジア大陸、すなわち中国と韓国、さらにインドに由来していると言われている。そのように様々な点でアジア大陸諸国に起源を持つ日本文化の中で、国外からやってきた影響は、歴史的、社会的、なお文化的な観点から見ると、どのように現れているのか、昔からどのような変化が遂げられていたか。そして今でも変化を遂げず中国風や韓国風などの特徴を持つのはなぜでしょうか。その幾多の点を検討するためには、マリアンナさんが紹介した古墳という古い遺跡の中で発見された壁画の研究も非常に役に立つに違いないと思う。古墳の内面を調べて、お墓の構造、壁に描かれた壁画、被葬者のまわりに並べられていた道具など、当時の人の生活、習慣、信仰、さらに民族的な起源とその頃の国際交流について教えられる。(ソフィー)


壁画とか手で触れるものが残ってなかったら、どうやって昔ことを知るか、なかなか難しいことだと思います。祖先が残した跡によって、子孫が過去のイメージを作るからです。跡がなくても、過去のイメージがあると思いますが、しかしそのイメージの精確さは微妙です。おそらく実際のと全然違うイメージになってしまうでしょう。いまでも過去のことについて謎がいっぱいあります。親から子供に伝わること、例えば伝説や昔話や童話などがあって、それによって時代を超えて民族の性質や伝統などが残ります。そこから例えば昔は韓国と日本の人々が交流をしていたということもわかるかもしれませんが、口伝だけに頼ると、その交流がいつ行ったかを証明できません。目に見えない証拠について、生き物は過去に起こったことを身体に保存していると思います。科学は詳しくはないですが、本能というのは大昔のあるできごとの結果かもしれません。例えば第二次世界大戦後は平和主義がやってきて、人間が戦争を絶とうとしています(そうでもないですが)。もしかしたら何百年後は人間が戦いのことを全く忘れているかもしれません。それでその時代は人間は戦いはしない生き物になってしまうかもしれません。そして戦いはしないというのが、第二次世界大戦の恐ろしさを体験して、トラウマを負って、「二度と同じことはしない」となった結果、本能、人間の性質になっていきます。このとき、戦争のトラウマというのが戦争がかつてあった証拠になれるかもしれません。しかし戦争があったというのを証明できても、いつ、どこ、なぜ起こったかは証明できません。つまり跡がない考古学はすごく大変だと思います。(ジュラ)

今週のテーマはマリアンさんが発表してくれました。授業での対話は話題が多岐にわたってしまいましたが、その中から私は一つの話題を選びました。それは、アーコシュさんが不思議に言いながら話題を始めた「目に見えないもの」という発想です。この文はどうやってマリアンさんのテーマに関しているかこれから説明します。マリアンさんが発表してくれたのは四神がどうやって中国から日本に伝来したかという面白い卒業論文内容の紹介でした。取り上げられたのはやはり歴史的な証拠、手で捕らえることが出来るものでした。しかしこうした有形の証拠を除いたら、どんな影響が残るだろうかとマリアンさんが言いました。歴史というものは過去を調べることです。その一つの方法として現在に残っている遺跡、やそのような直接研究が出来るものを探すことがあります。博物館はこういうものを集めて、誰としても見ることができるようにする施設です。しかし眼に見えるものが急になくなるとしたらどうやって歴史や過去のことが分かるだだろうかと考えて見ましょう。これによって歴史についての知識が全部なくなるという推測全く違うと思います。目に見えるもの意外にもう一つの現在を過去につなぐ何かがあります。それは今生きている人間そのものです。人間は自分の行動や振舞い方をとおして過去のことを語ってくれます。例えばどんな価値観を大事にするかは家族や宗教などの影響によって違います。あるいは家族や宗教が守ってきた習慣も過去をそのまま見せるいい例だと思います。家族のありさまは一般的な国家の影響を必ず受けていて、国家の特徴はやはり歴史の影響を受けます。この世の中でどんなものでもつながっていますから「目に見えるもの」を失ったとしても耳に聞こえるものや口で言えるものや心で感じられるものが過去に通じる道に導いてくれます。こういう素晴らしい世界では取り戻すことの出来ないものはありません。(レベンテ)

今史実として認められるものは確かな証拠があるものである。現在知っているものは昔作った物に基づく。さて、その昔作った絵、本などが消えたら現在をどう影響されるだろうか。間違いなく巨大な影響を与えるだろう。今まで知ってる世界が大分変わるだろう。例えば「ローマ建国史」のなん巻も消えたが、残された巻のおかげでローマの歴史の一部を人々は知っている。それがないと今はおそらくローマの歴史は大分失われてると思う。ただ、そうは言っても大きい文明の歴史の記憶はたぶん完全に消えないだろう。大事な情報は消えることは間違いないが、なにかの本にはその文明はある時代に存在したことは残されると信じたい。また、運がよければ、あることは口承によっても伝われるかもしれない、或いは二つの文化を比べるとき例え昔のものが残されなくても関係を見つけることができる。残念ながら昔は戦争で千金に値する資料がたくさん焼失した。それは昔の人々の多くが他の文明の重要さをまだ分からなかったからだ。戦闘中にそれらの資料に注意するひまはないし、例えそれらが残されていてもいろんな理由でそれが破壊されないという保障はない。未来はどうなるのか分からないが、現在は技術や人の歴史に関しての新しい考え方のおかげで私たちの歴史を失う可能性は低いと思う。(エメシェ)

多分すべての民族は自分の歴史によって強い影響を受け、特別な民族意識を得る。今知ってる歴史が変わったら、その意識もきっと変わると思う。そうであれば、今の政治も今の有様にならないかもしれない。例えばさまざまな国の対立や良い関係なども全然違うふうに上達して、今と全然違う世界になる。同じく今知っている宗教も存在しない、或いは違うふうに存在すると思う。なので「歴史を変わったらどうなるか」ということより、今の歴史をもっと知るようになるの方が役に立つのではないか。現代の歴史もかなり複雑だから、興味を持ってる方は現実の歴史を研究した方が面白くて大事なのではないか。(アルネ)

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