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「 もし壁画等の遺跡が消えてしまったら歴史認識は違うものになるか」の詳細記事: 対話の世界

対話の世界

カーロリ大学日本学科の議論の授業用ブログ

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もし壁画等の遺跡が消えてしまったら歴史認識は違うものになるか

壁画がきえると四神も人の記憶から消えるかというのは難しいしつもんです。私の意見では遺跡は必要です。遺跡は歴史の証拠なので消えてしまう場合は歴史自身も消えるかもしれないと思います。たとえばハンガリー人はなぜここにいるか、どこから来たのか、考古学者もぜんぜん知りません。なぜなら遺跡がないからです。遺跡がないと私たちの歴史の大きな部分が抜けてしまいます。壁画が消えたら日本の歴史の大きな分を消えてしまうかもしれない。ですから古墳は守るべきです。証拠の必要さには他の理由もあります。現代では悪い人もいますので偽物の遺跡をつくる可能性があると思います。その人の目的は金か、有名さか分からないが、人は何でもつくれます。例えば古い写真も、絵も、簡単に本物に似せることができます。そして偽物のせいで人はうそを信じるかもしれない。だからふるい遺跡は守らなければならないと思います。遺跡がなくなってしまうと、私たちの孫の孫の孫はどうやって私たちの生活を知るでしょう?多分写真はインターネットの上で見つかると思いますが、でも、「これって本当ですか?」と言ってしまうのではないでしょうか。少し悲しい考えですね。(ジュジャ)


古代やその前の目に見える遺跡が世界から消えてしまうとその時代についての知識が残るか?これはたぶん国によって違うかもしれないが、時間が経つにつれ昔のことの記憶が消えてしまうと思う。この消えてしまった遺跡を見た人は確かにいるんだが、あの人達が墓の壁画、洞窟壁画、古代の陶器などをもう一度作ってみても、同じようにならないと思う。この記憶を本にしても、自分で見るのと違う。そして同じテーマについての本でも、本の内容はある程度に違ってくると思う。各人各説ですから。同じことも皆にすこし違うように見える、そして違う意見を持つ。みんな別々から。だから、同じ話は誰かが語ると変わっている。そして時間が経つにつれ昔話のようになってしまう。そしてこの目に見える遺跡が消えることは研究者にも大変だと思う。自分で見る事が出来ないとどうやって研究するのか。もちろん本で読むだけで足りるという人もいるけど。自分の意見や自分の説を作るために直接な経験は重要だと思う。だから皆が昔の遺跡を守るすべきだ。だって、私たちが何所から来たこと、私たちの伝統が、父祖の伝統や文化は本当に大切だから。(エステル)


今週は七十年代に日本と朝鮮との関係を証明する壁画がある死室を発掘されたという話が聞かれた。この新しい出土品はいろいろな影響を及ぼした。一つは、壁画に描かれた四紳の存在の知識が広がり、現在せめて姿が日常知識になってきた状態に至ったということである。もう一つは、歴史学と考古学の世界で日本と朝鮮の「順位」まで含める論争が深めてきたということである。北朝鮮と韓国、そして日本の微妙な国交を慮ると、こういう論争の大変に邪魔な可能性が良く見ることができるはずである。この間、日本の歴史を見直させる考古学的な情報を隠れる天皇死室が関係当局によって厳重に管理し続けるようである。考古学と一般科学の進歩につれて、人間の知らないうちに出来上がったものは見直されていく。これが科学の重要な機能の一つである。例えば、地球が平面だという常識は天文学によって見直され、紅毛の人は月経に孕まれた者だという常識の時代は医学の発達によって終わった。歴史学と考古学が反証するまで、私たちハンガリー人もヨーロッパ各国同様、ハンガリー人がフン族に関係ある民族だと思っていた。現在ハンガリー人は自分の特殊性を大事にしている。最近もやっとペテーフィ・シャーンドル(Petőfi Sándor)の死体を発掘されたというニュースがあった。一方、やはりアッティラ(Attila)の死室の発掘のために金をもらいたがっている町もたくさんある。しかし、発掘計画の融資か許可の決定は政府の仕事であろう。つまり、いつも政治的な決定である。中国で始皇帝の墳丘墓はすごく見物される場所だが、死室自体の発掘は始まらない。どうしてであろうか。知らない事は利も損もしないであろう。例えば、ハンガリーの国民の代表的な英雄としたペテーフィについてウイーンから賄賂を受け取り、ハンガリーを裏切ったと証明する物質な実証が現れると、ハンガリー人の国民知識が害させられるであろう。とにかく、伝統的な説話と違う状態を指す証拠はいつも扱いにくい。始皇帝の墳丘墓の場合もこれに近いではないであろうか。そして日本の政府に管理された天皇死室も同じである。政府の仕事とは国民の福祉を守ることであろう。しかし、現状維持も政府の役割の一つではないであろうか。国民知識が害されたら福祉も害されるからである。戦後まで日本人は、日本が神国で、天皇が天照の子孫だという思想が一般であった。その以来の六十年間にこれは国家と国民がみな平等だという思想に変わった。しかし、日本の歴史に朝鮮が文化的や政治的に優勢であったという状態の可能性が出てくると国民に迷惑をかけることになるあろう。こういう情報を穿り返すのため、墓をあばくのは利益な所も不利益なところもあり得ることが分かるのではないだろうか。(ヤーノシュ)


今週マリアンさんが伝えたかったテーマは私にどのぐらい通じたのかわからないですけど、一つの物的なもの、たとえば韓国と日本を繋がる洞窟壁画が壊れるばあい、その壁画をもつ思想が壁画とともに崩れ、人の意識から消えてゆくことについての可能性について話し合った。私の考えでは、これはなにも心配する事ではありません。人は自分達にとって大切、いい影響を与える思想を守ります。更に守ることは無意識の作用です。脳もそのように情報や思考などを「有用」と「無用」みたいなカテゴリーに分けます。この進化的意見のほかにも一つの視点も紹介します。人はとんど自分の時代の為に限って(ピラミッドなどは議論の的になるでしょうが)芸術を創っていますので、芸術はその意識の鏡になり、時代に生きている人にとっていちばん意味があると思います。ですから壁画などの昔の記憶がなくなったら、わたしたちの(今の)思想でその壁画が再建できるとは思えません(ダーニエル)


今週の授業で複雑な問題について談話を行った。問題は壁画のような目に見える証拠がなくなっても昔の人々の思想などがかわかるようがあるかということであった。私の意見では歴史とは非常に難しい問題である。どうしてかというと、目に見える証拠があっても、昔の生活や思想や出来事などについて思われることの多くは単なる推測にすぎないのではないのではと思うからだ。たとえ記録が残ったとしても、それは書いた人の主観的な意見やその時代の政治的な状況に影響を受けたもので、考えないで客観的な事実として受け入れることがあまりできない。歴史の教科書にも時代や国によって違うことが書いてあるのではないであろうか。近頃のことさえ確かめることができない、ましてや昔の事情がわかるようがないとよく感じている。そのため、歴史とは何かも問題の一環であろう。それでも、目に見えるものがあったらいいと思う。なぜなら、人間にビジュアルなものは強い影響を及ぼすからである。しかし、目に見えないものがなくなっても、伝説や文化の中に確かに何か残ると思う。たとえば、ハンガリーのもとの宗教も目に見えるもの(儀式や聖典など)があまり残っていないのに、民話などからその様子がはっきりわからなくてもなんとなく推測できるであろう。(エリカ)


現在存在している壁画のような古代文化を証明する証がなくなったら、昔のことを想像できるだろうかと同級生にこの間質問された。いくら考えても、答えは難しすぎて、多分正しい答えというものはないかもしれない。例えば、今は存在している壁画がなくなっても、それについての書類は数多くある。けれども、将来の学者は現在の学者に書かれた論文を受け入れろのだろうか。時間がかかると、論文は正かどうか、その証はにせものかどうか判断するのは難しいだろう。その時代に本物として受け入れた歴史的な書類をも現代の学者がせものとして見なす場合も少なくない。それに、今まで見つかっていない壁画等の古代の文化についての意見を変える証明がある可能性も否定できないのではないだろうか。古代よりもっと近い歴史についても曖昧な点が多いので、古代の文化、生活、宗教意識などを分かろうとすることは難しい。それでも古代の研究のような興味深くて、素晴らしい研究は他にはないだろう。(クリスティナ)


古代朝鮮と古代日本の文化交流といえば、日本文化の要素のいくつかは、アジア大陸、すなわち中国と韓国、さらにインドに由来していると言われている。そのように様々な点でアジア大陸諸国に起源を持つ日本文化の中で、国外からやってきた影響は、歴史的、社会的、なお文化的な観点から見ると、どのように現れているのか、昔からどのような変化が遂げられていたか。そして今でも変化を遂げず中国風や韓国風などの特徴を持つのはなぜでしょうか。その幾多の点を検討するためには、マリアンナさんが紹介した古墳という古い遺跡の中で発見された壁画の研究も非常に役に立つに違いないと思う。古墳の内面を調べて、お墓の構造、壁に描かれた壁画、被葬者のまわりに並べられていた道具など、当時の人の生活、習慣、信仰、さらに民族的な起源とその頃の国際交流について教えられる。(ソフィー)


壁画とか手で触れるものが残ってなかったら、どうやって昔ことを知るか、なかなか難しいことだと思います。祖先が残した跡によって、子孫が過去のイメージを作るからです。跡がなくても、過去のイメージがあると思いますが、しかしそのイメージの精確さは微妙です。おそらく実際のと全然違うイメージになってしまうでしょう。いまでも過去のことについて謎がいっぱいあります。親から子供に伝わること、例えば伝説や昔話や童話などがあって、それによって時代を超えて民族の性質や伝統などが残ります。そこから例えば昔は韓国と日本の人々が交流をしていたということもわかるかもしれませんが、口伝だけに頼ると、その交流がいつ行ったかを証明できません。目に見えない証拠について、生き物は過去に起こったことを身体に保存していると思います。科学は詳しくはないですが、本能というのは大昔のあるできごとの結果かもしれません。例えば第二次世界大戦後は平和主義がやってきて、人間が戦争を絶とうとしています(そうでもないですが)。もしかしたら何百年後は人間が戦いのことを全く忘れているかもしれません。それでその時代は人間は戦いはしない生き物になってしまうかもしれません。そして戦いはしないというのが、第二次世界大戦の恐ろしさを体験して、トラウマを負って、「二度と同じことはしない」となった結果、本能、人間の性質になっていきます。このとき、戦争のトラウマというのが戦争がかつてあった証拠になれるかもしれません。しかし戦争があったというのを証明できても、いつ、どこ、なぜ起こったかは証明できません。つまり跡がない考古学はすごく大変だと思います。(ジュラ)

今週のテーマはマリアンさんが発表してくれました。授業での対話は話題が多岐にわたってしまいましたが、その中から私は一つの話題を選びました。それは、アーコシュさんが不思議に言いながら話題を始めた「目に見えないもの」という発想です。この文はどうやってマリアンさんのテーマに関しているかこれから説明します。マリアンさんが発表してくれたのは四神がどうやって中国から日本に伝来したかという面白い卒業論文内容の紹介でした。取り上げられたのはやはり歴史的な証拠、手で捕らえることが出来るものでした。しかしこうした有形の証拠を除いたら、どんな影響が残るだろうかとマリアンさんが言いました。歴史というものは過去を調べることです。その一つの方法として現在に残っている遺跡、やそのような直接研究が出来るものを探すことがあります。博物館はこういうものを集めて、誰としても見ることができるようにする施設です。しかし眼に見えるものが急になくなるとしたらどうやって歴史や過去のことが分かるだだろうかと考えて見ましょう。これによって歴史についての知識が全部なくなるという推測全く違うと思います。目に見えるもの意外にもう一つの現在を過去につなぐ何かがあります。それは今生きている人間そのものです。人間は自分の行動や振舞い方をとおして過去のことを語ってくれます。例えばどんな価値観を大事にするかは家族や宗教などの影響によって違います。あるいは家族や宗教が守ってきた習慣も過去をそのまま見せるいい例だと思います。家族のありさまは一般的な国家の影響を必ず受けていて、国家の特徴はやはり歴史の影響を受けます。この世の中でどんなものでもつながっていますから「目に見えるもの」を失ったとしても耳に聞こえるものや口で言えるものや心で感じられるものが過去に通じる道に導いてくれます。こういう素晴らしい世界では取り戻すことの出来ないものはありません。(レベンテ)

今史実として認められるものは確かな証拠があるものである。現在知っているものは昔作った物に基づく。さて、その昔作った絵、本などが消えたら現在をどう影響されるだろうか。間違いなく巨大な影響を与えるだろう。今まで知ってる世界が大分変わるだろう。例えば「ローマ建国史」のなん巻も消えたが、残された巻のおかげでローマの歴史の一部を人々は知っている。それがないと今はおそらくローマの歴史は大分失われてると思う。ただ、そうは言っても大きい文明の歴史の記憶はたぶん完全に消えないだろう。大事な情報は消えることは間違いないが、なにかの本にはその文明はある時代に存在したことは残されると信じたい。また、運がよければ、あることは口承によっても伝われるかもしれない、或いは二つの文化を比べるとき例え昔のものが残されなくても関係を見つけることができる。残念ながら昔は戦争で千金に値する資料がたくさん焼失した。それは昔の人々の多くが他の文明の重要さをまだ分からなかったからだ。戦闘中にそれらの資料に注意するひまはないし、例えそれらが残されていてもいろんな理由でそれが破壊されないという保障はない。未来はどうなるのか分からないが、現在は技術や人の歴史に関しての新しい考え方のおかげで私たちの歴史を失う可能性は低いと思う。(エメシェ)

多分すべての民族は自分の歴史によって強い影響を受け、特別な民族意識を得る。今知ってる歴史が変わったら、その意識もきっと変わると思う。そうであれば、今の政治も今の有様にならないかもしれない。例えばさまざまな国の対立や良い関係なども全然違うふうに上達して、今と全然違う世界になる。同じく今知っている宗教も存在しない、或いは違うふうに存在すると思う。なので「歴史を変わったらどうなるか」ということより、今の歴史をもっと知るようになるの方が役に立つのではないか。現代の歴史もかなり複雑だから、興味を持ってる方は現実の歴史を研究した方が面白くて大事なのではないか。(アルネ)
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